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(※前編)



 門倉部長。鈴の音のような可愛らしい声が俺の名前を呼ぶと、少女のようなあどけなさを残した彼女―――山田ちゃんがソーサーに乗せたコーヒーカップを机の上に置いた。熱いので気を付けて下さいね、と言われたがそれよりも先に俺は淹れたてのコーヒーで舌を火傷した。アチチッ、と舌を出す俺を見て彼女はフフッと笑うと、門倉部長は相変わらずおっちょこちょいですねと言った。
 昨年、人事異動で支社から本社にきた彼女は、この部署でマドンナ的存在になっていた。仕事も出来て愛想もいい。おまけに可愛いときたもんだ。近くを通ればお花の良い香りがして俺はいつも癒されている。おじさんの俺が手を出せば犯罪になってしまうぐらいの年の差はあるし、会話もジェネレーションギャップをよく感じるほどだ。

 それでも、彼女を見て癒されるぐらいのことはしてもいいだろうと、人生に疲れた俺はそう思っている。

「門倉部長、書類の確認お願いします」
「俺がチェックしなくても、山田ちゃんなら大丈夫だと思うんだけどねえ」
「そんなこと無いですよ。私は門倉部長に見てもらいたいんです」
「そ、そう?」

 彼女の言葉と笑顔に思わずドキッとしてしまった。……何ドキッとしてんだよ。彼女の言った俺に見てもらいたい、という言葉に意味なんて無い。こんなおじさんの俺にも愛想良くしてくれる良い子なんだ。少しの期待だってしたら駄目に決まってるだろ。

「あの…、門倉部長。相談があるんですけど……」
「え?どうしたの?」

 書類に向けていた視線を山田ちゃんに移すと、彼女は視線を斜め下に向けたまま色白で綺麗な指先で顔横に垂れていた髪を片耳に掛ける。その流れるような仕草はまるで映画で見るワンシーンのように綺麗だった。ちょっとだけ見惚れていると、ちらりと視線が俺に向けられ、艶やかに整った唇がゆっくりと開いて言葉を紡ぎ出す。

「今日、終業後にお時間頂けませんか…?」
「別に良いけど……、内容によっては俺より他の人の方がいいんじゃない?」
「門倉部長がいいんです…!」
「そ、そう…。わかったよ」

 一体何の相談か分からないが、彼女がほんの少しだけ頬を赤らめていたので、俺には不向きな恋愛相談じゃないだろうかと不安で背中に冷や汗をびっしょりと流す。俺がいいと彼女が勢いよく言うので、思わず押され気味に返事をしてしまった。本当に彼女の相談を受けていいんだろうかと、俺の人生経験がそう思わせる。
 後輩にタロット占いが得意な奴がいて、練習台として俺を選んでやっていたのだが、どう頑張っても俺は死神のカードやら逆さ吊りにされた不吉なカードが出て、最強の凶運の持ち主だと思われ自分でもそう思った。

 終業時間になって必要な荷物を鞄に詰めていると、山田ちゃんが駐車場で待ってますと小声で言って先に退社した。確か彼女は電車通勤してるんだったっけ、と帰りは車で送ってあげようと考えながら駐車場に向かった。既に俺の車の前で待っていた彼女は、今日はありがとうございますと頭を下げたので、いや暇だったから、となるべく気を遣わせないように言葉を選ぶと、ふわりと俺に微笑んだ。

「えーっと、とりあえず車乗る?」
「はい。お願いします」

 この状況に緊張するのは、彼女を少しでも女として見てるせいなのか、それとも犯罪に手を染める一歩手前の心理状況からくるものなのか。若干震える指先で鞄から鍵を取り出そうとして掴んだまでは良かった。思わず手から落ちたそれは、カチャンと音を立ててアスファルトに落ちると滑るように車の下に潜り込んでしまった。うわ、最悪だ。
 静かな駐車場に響いた金属音に、大丈夫ですか?と彼女の心配する声が聞こえたが、急いで車の下に手を突っ込んで手探りで鍵を手に取ると、ホッと一安心して腰を上げる。
 次の瞬間、後頭部に鈍器で殴られたような痛みが走り、俺はサイドミラーで後頭部をぶつけたのだと分かった。

「門倉部長!?だ、大丈夫ですか?凄い音がしましたよ!」

 助手席側のドアの前で待っていた山田ちゃんが、小走りで運転席側に居る俺の下へやってくると、屈んだまま後頭部を押さえて動かない俺の隣に彼女も腰を下ろした。大丈夫だから、と頭を上げた時、心配そうに此方の様子を窺う山田ちゃんの綺麗な顔が間近にあり、思わずうわっと後ろに引っ繰り返ってしまった。

「ご、ごめんなさい!驚かせちゃって…、どうしよう。怪我ありませんでした?」
「は、はは……ホント、俺どん臭くてゴメンネ」
「いえ、そんな……。今日だって門倉部長の貴重なお時間を頂いてるのに」

 それは別にいいんだよ。そう苦笑しながら立ち上がる俺に手を貸してくれた彼女の手は、ほんのりと優しい温かさがあった。俺のカサカサになった指先が、彼女の手に触れる事すら許されるはずがないのに。

 車に乗りそのままで相談を聞こうとしたが、タイミングよく山田ちゃんのお腹に飼っている虫がきゅるる、と可愛い鳴き声をあげた。静かだった車内に聞こえた音は、次第に恥ずかしさから彼女の頬を赤く染めた。思わず可笑しくなって、何か食べに行こうかと声を掛ければ、彼女の照れながら笑う表情に俺自身の緊張も和らいだ気がした。

「とは言ったものの…俺って若い子が食べそうなものって、あんまり分からないんだよねぇ」
「じゃあ、私の行きつけの喫茶店に行きませんか?」
「え、いいの?」
「勿論ですよ」

 門倉部長とデートだ、と呟いた彼女に、俺は何か聞き間違えをしたんじゃないかと、思わず助手席に座る山田ちゃんを見てエッ?と声を漏らす。おじさんの幻聴であって欲しいと思ったが、彼女は「私じゃ役不足ですよね」と申し訳なさそうに笑っていた。いやいや、そうじゃないでしょ。俺、おじさんだよ?本当なら君のような若い子の隣を歩くことすら許されない、ご両親と同じ年齢であろう男だよ?

 山田ちゃんに道を案内されながら車の運転をする俺は、終始不整脈を起こしたんじゃないかと心配になる程の動悸の速さだった。

「門倉部長、そこ右に曲がってください。そのまま左手にお店あるので」
「あ、ハイッ」

 駐車場に入り白線内に車を停めると鞄を手に車を降りた。アスファルトの上をリズム良く歩く彼女のコツコツとするヒール音が心地の良いものに聞こえる。喫茶店というので女の子が好きそうな最近流行りのお洒落なお店かと思ったが、昭和レトロな見た目に心成しか安心した。
 入店するとBGMに落ち着いたジャズが流れており、若い頃は元妻とこんな喫茶店でデートしてたっけか、と昔を思い出した。

 席は自由だったので窓際の角を選ぶと、山田ちゃんは早速メニューを手に取ると、このお店のナポリタン凄く美味しいんですよと嬉しそうに話すので、じゃあ俺はそれにしようかなと苦笑した。私もナポリタンにしますと言い店員を呼ぶと二人分注文した。
 食後のコーヒーを頼み忘れたなぁ後でいっか、と心の中でボヤいていると店員を呼び止めた山田ちゃんが「食後のコーヒーお願いします。門倉部長はブラックでいいですか?」と優しく俺に微笑んだ。手慣れたように注文する姿に、黙ってしまっていた俺はハッと意識が現実に戻り、お願いしますと首を縦に振った。

「門倉部長はいつもコーヒー飲んでらっしゃるので、思い出して注文しちゃいました。ご迷惑でしたか?」
「いや、全然!迷惑どころか俺も頼み忘れて後でいいかって思ってた所だったから、山田ちゃんが察しが良くて助かったよ」

 右手で後頭部を掻きながらあははと苦笑する俺に、良かったと両手で頬杖を付く彼女が何とも可愛らしかった。俺がもうちょっと若ければ、少しは望みがあったのだろうか。こんなダサいおじさんじゃなければ、まだまだイケたのだろうか。妄想だけが膨らんでいく俺の脳内事情を彼女が知る訳もなく、手元にあったお冷グラスを眺めた。

「門倉部長って、彼女いるんですか?」
「え?」
「彼女、いるんですか?」
「……えっ!?」

 こんな歳で彼女も何も無いだろう。どちらかと言うと、奥さんいるんですか、なら良く聞かれることはある。一種のコミュニケーションとして出される話題なのだが、妻子に逃げられたとネタとして言ってみても、別に誰かが笑う訳でもなく微妙な空気になることは良くあった。だから、山田ちゃんの質問があまりにも俺に不釣り合いな内容だったので、二度聞き返してしまった。

「…すみません。不躾な質問でしたよね」
「あ、いや…別にそれはいいんだ。ちょっと驚いちゃって、ごめんね」

 バツイチで独身であることを明かせば、山田ちゃんはそうなんですね、と何故か嬉しそうにしていた。もしかして俺を揶揄おうって魂胆じゃ……、いやいや、山田ちゃんがそんなことをする子じゃないって知ってるだろ。疑って掛かるのは良くない。

「あっ、そうだ。俺に相談があるって言ってたけど、何かあったの?仕事で嫌なことでもあった?それとも俺がしちゃったとか?」
「門倉部長は何も。むしろいつも私の書類チェックしてくれる、優しい方だと思ってますし」
「まあ、仕事だし、うん」
「門倉部長……あのっ、今度の日曜日なんですけど……私と動物園に行きませんか!?」
「………えぇっ!?」

 動物園?え?なんで?というか俺と?どういうこと?

「ご、ごめんね。疑う訳じゃないんだけど、何か罰ゲームをやらされてるとかじゃ、ない、よね?」
「罰ゲーム?何でですか?」
「だって俺みたいなおじさんと動物園に行くとか……もう、絵面が父親と娘じゃん」
「門倉部長は私の事を子供だと思いますか…?」
山田ちゃんは立派な大人だと思うけど、俺は二回りも上なんだよ?君のお父さんと同い年でもおかしくない歳なのに」
「門倉部長はそう思ってても、私にとって門倉部長は―――」

 彼女が言葉を続ける前に、店員が注文した料理を持ってきたので、そこで会話は中断された。少しだけ微妙な空気になっていたが、ナポリタンを口にした彼女は頬を綻ばせて、美味しいと感想を述べた。俺も食べてみると、何だか懐かしい味がして、たまには喫茶店のパスタも悪くないと舌鼓を打った。
 食べてる間は先程の重い空気も消え去り、幸せそうに食べる彼女を見て一安心しながら癒されているのは結局俺の方だった。

 食事を終えて食後のコーヒーが運ばれてくると、門倉部長はブラックでしたよね、と彼女が言うので頷けば、俺のソーサーに乗っていたスティックシュガーとミルクを見詰めて、貰ってもいいですか?と伺うように此方を見上げてきた。いいよ、と彼女のソーサーにそれらを移すと、私甘党なんですと言って自分の分と渡した分のミルクを加えてティースプーンで混ぜながら苦笑した。

「一度、門倉部長が飲んでたブラックコーヒーと同じものを飲んだことがあったんです」
「あはは、甘党の山田ちゃんには相当苦かったんじゃない?」
「はい、仰る通りです。凄く苦くて…、でもこれがいつも門倉部長が飲んでるコーヒーなんだなって、知ることが出来て嬉しかったんです」
「嬉し…え?」
「私、門倉部長が好きです」
「ブウウゥ!!」

 思わず飲んでいたコーヒーを口から噴き出してしまった。反射的に顔を横に向けていたので彼女に噴き出すことは無かったが、流石に吃驚し過ぎて噴き出した後は思い切り咽てしまった。ゲホゲホ咳をする俺に、大丈夫ですか?と彼女は席を立つと俺の隣で腰を曲げて心配そうに顔を覗き込みながら背中を擦ってくれた。

「げほっ…ゴ、ゴメン。あまりにも山田ちゃんの冗談が俺にぶっ刺さったから…、ごほっ」
「……やっぱり、冗談に聞こえちゃいますよね」

 声のトーンが大人しくなった。口を押えたまま横に居る彼女に顔を向けると、しゅんっとした表情で床を見詰めていた。好きにもいろんな感情があるだろうし、もしかしたら恋愛感情じゃなくて、上司とか同じ職場の人としてって場合もある。そうだ、きっとそういうことだ。

「ところでさ……それって会社の同僚として、だよね?」
「……門倉部長のこと、ずっと想ってました」

 椅子に座り直した彼女が、門倉部長が私にそんな気が無い事は知っていましたと続けて口にする。その顔は本当に申し訳さなさそうにしていて、彼女の純粋な気持ちが却って俺の心を抉っていく。
 こんなしょうもないおっさんを恋愛対象にするのは、きっと若い子が年上の男に憧れる的なやつだろうと思った。だって、そうじゃなきゃこんな幸薄いおっさんを好きになるわけないだろ。俺の身勝手な行動で、彼女の大切な人生や時間を無駄にさせてはいけない。

 膝の上でぐっと握りこぶしに力を入れると、山田ちゃんの目を見てから口を開いた。

「ごめん…気持ちには応えられない。山田ちゃんはまだ若いんだから、こんなおじさんよりももっと良い人と出会えるはずなんだ。だから―――」
「分かりました」
「…そっか。気持ちは嬉しかったよ、ありがとね」
「私、もっと頑張ります」
「…エッ?」
「門倉部長に釣り合うような素敵な女性になります」
「……話し聞いてた?」
「私にチャンスをくれませんか?」

 上目遣いで捨てられた子犬のように見詰めてくる山田ちゃんに、俺は思わず固唾を飲む。チャンスってなに?とおずおずと聞いてみれば、一回だけでいいからとデートをせがまれた。
 彼女は言い出したら相手がYESと言うまで離さない事を、俺はこの一年で知った。だからどんな言い訳や持論を並べた所で、彼女は絶対に俺を帰さないだろう。はあ、と長い溜息を吐くと俺は彼女を見て動物園だっけと返事をすると、ぱあっと花でも咲いたように山田ちゃんは笑顔になった。


 今日、一日で学んだことは、若いって怖い。