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対価



 ついに明後日の日曜がネズミーランドの日だ!と浮かれていた私の元に、優子ちゃんからメールが入った。その内容を見てスマホを握っていた手にキュッと力が入る。
 ―――――『宇佐美さんとお付き合い出来ることになったの。報告遅れてごめんなさい』
 やっとお付き合い出来ることになったんだ…。良かった、良かったよ優子ちゃん。さすが恋愛マスター。あの状況でどうやって引っ付けたのか私には想像も付かないけど、いつか彼女の方から詳しい報告はしてくれるのを信じて朝食の準備を始めた。
 もう少しで夏もやって来るわけだし、4人で海水浴とか行けたらいいな。

 朝食を食べながらニュースを見ていると、街頭インタビューでまさかの宇佐美さんが捕まっていた。飲んでいた味噌汁をゴフッと噴き出す私と、口の端からダラダラとコーヒーを垂れ流す尾形さん。そりゃ朝からそんな映像も見ればこうなる。
 テレビに釘付けになっていた私たちは、インタビュー内容が『貴方の恋人の可愛いと思う所を教えて下さい』というものだった。尾形さんはまだあの二人が付き合ってる事知らないから、これでどんな反応を見せるかある意味楽しみではあった。彼を観察するように口元を拭いながら横目で見ていると、液晶の中の宇佐美さんが「強気な態度なのに実は凄く照れ屋なのかなって思わせといて計算高いところ」と答えていた。それ褒めてんのか貶してんのか分かんないよ宇佐美さん…。

 その映像を見ていた尾形さんは、予想通り私に顔を向けると「あいつ、彼女居たのか…?」と聞いてきた。

「そ、そうみたいですね」
「フーン」

 一応、私も初めて知った風な態度で答えれば、尾形さんは差して興味無さそうな反応を見せた。
 壁掛け時計を確認すると出勤時間も迫っている。私たちは大人しく食事を済ませると仕事に行く準備を始めた。別に毎日の日課って訳じゃないけど、彼はネクタイを結ぶ時にわざわざ私の元にやってきて、ン、と腰を曲げて私にやらせようとする。最初は何のポーズだろうって思ってたんだけど、首からネクタイがぶらーんと垂れ下がっていたので一応察することは出来た。

「いい加減、前みたいに自分で巻いて下さいよ」
の方が綺麗に結べるだろ」
「……もう、今日だけですよ」

 この会話も何度目だろうか。お決まりの台詞と返しも既に毎朝のシーンの一つだ。新婚夫婦の真似事でもやっている気分で、悪い気はしないけど恥ずかしい。
 結び終えたネクタイをキュッとして尾形さんに確認してもらうと、OKの合図として「ン」と一言漏れた声に私は一安心する。自分も寝室に戻って着替えを済ませると、あとは毛先を緩く巻いて終わりだ。

「今日は残業になりそうなんで、作り置きしておいたオカズ食べて下さいね」

 玄関でパンプスを穿きながらそう伝えると、何故か怪訝そうな顔を向けられた。なんでそんな顔してるんだろうとドアノブに手を掛けたところで、彼に反対側の腕を掴まれる。反射的に振り向く形になった私は、もう一度彼を見上げると先程とは違い、眉間に皺を寄せた尾形さんが私を見下ろしていた。

「な、なんですか…?」
「……無理はすんなよ」
「は、はい…」

 彼なりに心配してくれているのだろう。
 確かに私は今まで残業はしてこなかった。今日みたいに出勤前から残業になると伝えるのも初めてで、余計な心配を掛けてしまったかもしれない。尾形さんの事だから、私がまた先輩方から仕事を請け負ったんじゃないかと思ってるのかも。今はもう月島主任の事もあって仕事量は以前の倍以上増えたわけで、一番忙しくしてるのは尾形さんの方なのに、この人はいつまで経っても私に頑張り過ぎるなと言う。その台詞をそのまま返してやりたいと思ったことが何度あったことか。
 でも、私が彼を心配するようなことを言っちゃうと逆にまた説教されちゃうんだろうなぁ。

 彼の車で一緒に出勤してからは、朝礼後只管に通常業務を熟していた。昼休みになった時、優子ちゃんに改めて宇佐美さんとの関係を祝福すると、照れ臭そうにしながらもいつも通りに"ありがとう"と笑っていた。
 食堂で食事をしながら彼女から事の顛末を聞いた。宇佐美さんらしいというか、少しやり過ぎな気もしたけど結果的には付き合うことが出来たのだから万々歳だ。彼女の想いがちゃんと伝わってて良かったと、幸せのお裾分けをしてもらいながら鯖の味噌煮を美味しく頂いていると、噂の人物―――宇佐美さんが現れた。
 手を上げて宇佐美さんと声を掛ければ、私たちに気付いてやってきた。

「俺もお邪魔しちゃっていいの?」
「何を今更。丁度、宇佐美さんの事を話してたんですよ」
「ちょっとぉ、ちゃん!」
「いいじゃない。もう二人はお付き合いしてるんだし」

 ニヤニヤとした視線を二人に向けながら、私は手に持っていたお茶碗の白米を一掬いすると、最後の一口を食べる。ご飯も美味しい上に、幸せそうな二人を見るのもまた美味しい。最近までは自分の事で精一杯だったけど、私と尾形さんがお付き合いする事になった時、優子ちゃんもこんな気持ちだったのかな。

「そういえば尾形の姿が見えないね」
「今日一日ずっと外回りみたいです。色々と立て込んでるって言ってました」

 説明を聞いていた二人は、あの人が珍しいと驚いていた。確かに一日中外回りするような流れは無かったし、彼が残業するのは決まって事務処理のときだ。やっぱり月島主任の仕事を請け負ったことが負担になってるんじゃないだろうか。普段から忙しそうなのに、私が彼の言葉に甘えてしまったから……。

「ちょっと前から尾形の仕事量増えてなかった?」
「私もそう思った!キャパオーバーな気がする…」

 うっ……理由を説明したいところだけど、まだ月島主任の異動については何も知らされてない筈だから口外出来ない。なんの誤魔化しも思い付かない私は、ただ黙ったまま目の前の空になった茶碗を見詰めてた。

 昼休憩も終わり各自の業務に戻る中、私はふと尾形さんのデスクに残されていた書類を手に取った。内容を確認すると明らかに月島主任が抱えていたものだ。今では私も尾形さんと同じぐらいには仕事を熟してる。少しでも彼の役に立ちたいと思い、私は手に持っていた書類を抱えたまま自分のデスクに戻った。ノーパソを開いて、彼の負担を少しでも軽くしようと小休憩も挟まずにデスクに座り続けた。

ちゃん、休憩しなよ。体がもたないって」
「すみません…。この仕事だけでも終わらせておきたいんです」
「まあ、程々にね。はい、これお裾分け」

 ひやっとした感触が頬に伝わり、思わずひゃっ!?と声を上げる。冷たかったそれは、宇佐美さんが持っていた缶コーヒーで「これはちゃんのだから」と机に置いた。

「お代を…」
「別にいいって。実は野々村から頼まれてたんだよ。今日は頑張り過ぎてるから渡してやってくれって」
「優子ちゃんが…。ありがとうございますっ」

 今は他の部署に足を運んでいる為、彼女の姿は無いがお礼を言う。プルタブを捻りカシュッと音を立てた缶コーヒーをぐいっと一口飲むと、超苦かった。思いっきり眉間に皺を寄せて渋い顔をすると、彼はそれを見てプッと噴き出した。これってブラックじゃん……。

「あはは!スゲェ顔してる!」
「ちょっと宇佐美さん!わざとブラック買ってきたでしょ!?」
「うん、そうだよ」
「そうだよ、じゃないですから……!」

 苦いものが苦手な私にとってブラックコーヒーは本当に大人の飲み物だ。だから尾形さんに作るコーヒーはブラックでも私は必ずミルクを入れる。そうじゃないと到底飲めそうもない。以前、彼が私のコーヒーを間違えて飲んでしまい、甘すぎるそれに舌を出していたが、逆に彼は甘すぎるのが苦手らしい。
 夕刻の定時を過ぎた頃には社員の殆どは退社していた。今日はデートがあるからと優子ちゃんは嬉しそうに帰って行き、そのあとに続いて宇佐美さんも苦笑しながら、それじゃお先にと挨拶して帰って行った。室内には既に私一人がポツンと取り残されている。
 未だに尾形さんは外回りから帰っていない。出来上がった書類を彼の机に置くと、念のため付箋に「確認お願いします」の一言を貼り付けた。

「さーてと…自分の仕事もさっさと終わらせなきゃ」

 ウーンと伸びをして、目の前のノーパソと睨めっこを始めた。



――――――――――――



 会社に戻った時には夜の10時を回っていた。流石にここまで遅くなるとは思っていなかった尾形は、既に電気の消された営業部に戻るとカチッとスイッチを入れる。そして、明るくなった室内を見渡した尾形はギョッとした。流石にもう誰もいないと思っていた室内で、机に伏せたままピクリとも動かないが居たからだ。
 そっと足音を消して近付いて顔を覗き込んでみると、どうやら慣れない残業途中に寝てしまったのだろう。彼女はスヤスヤと気持ちの良さそうな寝息を立てていた。

 一応、自分のデスクに戻ると付箋の貼られた書類がいくつか転がっていた。その中には今朝そのままにして手を付けず置いていった書類も混ざっている。付箋に掛かれた筆跡は明らかにのもので、自分の居ない間に彼女がやったのかと茫然とした。有難いやら、もっと自分の置かれた状況を考えて手伝ってくれと説教したいやらで、起きる気配のない彼女に視線を向けて思う。
 起こしてさっさと連れ帰りたい所だが、この寝顔を観察するのも悪くないなと思った尾形は、彼女の隣のデスクの椅子に腰かけると、机に頬杖を付いた。

 寝顔を数分眺めた後は、既に電源の落ちてしまっている彼女のノーパソを起動させると、作業途中の画面が映し出される。作業履歴を確認したところ、ほぼ終盤だろう。

「……おい、。起きろ」
「………ん、おがた…さ、ん………え、えっ!?なんで尾形さんが!?」

 は驚きの表情をそのままに、座っている椅子を左右に回転させて窓の外を見る。ブラインドの下りていない窓から見える景色は夜景だった。

「いま何時!?」
「22時回ってる」
「…うそ、やだ…2時間も寝ちゃってる!」
「…フッ、ハハ」
「笑ってる場合じゃないですよ…仕事終わってないのに…!」
「明日やったらいいだろ。確認したが納期は明日の午後になってるぜ」
「それってつまり明日ってことなんですよ!?じゃあ急いで、」

 落ち着きのない彼女を落ち着かせるために尾形はそっと彼女の頭を優しく撫でた。彼の行為の意味が分からないは、キョトンとなる。

「あの……なんで私は撫でられているんでしょうか」
「少し落ち着けってことだ」
「…ハイ」

 効果抜群、彼女は見る見る内に先程の慌ただしさも無くなり、肩に入っていた力も抜けていった。撫でる尾形の手が気持ちいいのか、は少しだけ口元を緩めて微笑むとフフと笑いが零れる。

「…ありがとうございます。もう充分落ち着きました」
「ん、ならいい。帰り支度をしろ、俺はもう腹ペコだ」
「分かりました。帰ったらすぐに晩御飯ですね!」

 あまり根詰めてやっても彼が心配するだけだと思ったは、お腹が空いたという少年みたいな甘え方をする尾形を横目にもう一度笑みを零すと、ノーパソの電源を切り、荷物を持って二人肩を並べオフィスを出た。