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可愛いおじさんVS一般女子


 この場から逃げ出したい。

「―――――で、そろそろ返事を貰いたい所なんだが」
「はあ、えっと……そのですねぇ…」

 はっきりしない私の言葉に、鶴見部長はそっと目の前に正社員手続きの書類を差し出してきた。

 今、私は仕事終わりに彼に呼び出され、そして誰もいない会議室で向かい合うように座り、鶴見部長の猛烈なアピールを浴びている。確かに私はそろそろ辞める人間だけど、と心の中で社員という存在に縋りつきたい気持ちを抑えて、目の前で光り輝いているように主張する書類に、うっと目を閉じた。

「ここにサインをしてくれるだけで、手続きは終わる。とても簡単なことだよ」
「ひっ……鶴見部長の意地悪ゥ!」
「ハッハッハッ、なんとでも言いなさい」

 彼とのやり取りは真に受けては駄目だと、お互いに冗談を言えるぐらいの関係は築いていた。

「だ、だってここにサインしちゃったら手続き完了しちゃうじゃないですかぁ!」
「良く分かってるじゃないか。さ、ここにサインを頂戴な?」
「可愛く言っても駄目ですよ!私は絶対にサインしませんからね!」

 おじさんのくせに可愛いとは何事じゃ!何事じゃ!クゥ…!

 心の中で葛藤を続けている私は、さっと書類を彼に押し返す。しかし鶴見部長も同じように私の前に押し返してくる。なんだこの押し問答。

「私の何がいいって言うんですか。出来ることって言ったら精々お茶汲みと書類をホチキスで留める作業ぐらいですよ!?」
「うん、いいじゃないか。その作業は誰もが嫌がることだ。率先して君がやってくれると仕事も捗ると思うんだ」

 ああ言えば、彼も私を丸め込もうとこう言うのだ。何十回目だろう鶴見部長との攻防戦も、そろそろ決着をつけるべきだと思っている。何か奥の手を考えないと…。

「ああ、そうだ。もう一つ別の用事があったんだ」
「はい、なんですか?」
「これこれ。退職届を作ったからここにサインしておいてね」
「今ですか!?」
「日付は今年付けにしてあるから、今年いっぱいは食堂で働けるよ」

 いきなり現実を突きつけてきた彼に、自然と私の視線は社員登録書の紙に向く。私の視線に気づいた彼は、またそっと私の目の前に社員登録書を差し出す。退職届と隣り合わせに並べられた二枚の書類を交互に見て小さな声で、もし社員になったらどこの部署に配属されるんですかと聞いた。

「んー、まあ出来れば私と同じにしてあげたいんだけどねえ。一応、口利きはしてあげるつもりだし、十割私の部下になると思ってくれていいよ」
「いやそれ決定事項になってますけど」
「私の部下は嫌かい?ん?」
「い、いや…じゃない、です」
「うん、決定だね。それじゃここにサインちょーだいな」

 くっそ…なんだよその可愛さ。反則だろ。
 渋々書類にサインをすると彼は嬉しそうにそれを受け取り、来年から宜しく頼むよ君と超笑顔で言った。ほぼ押され気味にサインさせられた私は、明日にでもマミちゃんに報告しておこうと盛大な溜息を吐いた。

 いつか尾形さんに知られちゃう事になりそうなので、彼にも今日の夜辺りに報告出来たらいいなあと、また溜息が出た。




 アパートに戻って、ご飯を作りながら尾形さんにどう話を切り出そうか考えていると、携帯が鳴る。火を止めて画面を確認するとマミちゃんからだった。もしもーしと電話に出ると、突然おめでとうと言われた。
 何が何やら分からず混乱する私に、鶴見部長から話は聞いたと説明してくれる。

「もう伝わっちゃったんですね…さすが鶴見部長と言うか…」
「アンタが社員になってくれて私は嬉しいよ。それにね、この話は私から鶴見部長にお願いしていたことだったんだ」
「……え?どういうことですか」
「アンタまだ若いだろ。もっと沢山の経験をして視野を広げるべきだと思ったんだよ。鶴見部長がを気に入ってるって知って、私が声を掛けたのさ」

 じゃあ、マミちゃんは最初から知っていたのかと、全身の力が抜けてその場でしゃがみ込んだ。

「でも……尾形さんは、」
「あの子には言ってないけど、多分気付いてるよ。だって鶴見部長に何回も呼び出されるアンタを見てりゃ、何かあると思うんじゃないかね」
「え?見られてたんですか?」
「気付いてなかったのかい?」

 え、いや…そんな風に言われると恥ずかしいんですけど……。

「でもちゃんと説明してやりな。一番アンタの事を心配してるのは百ちゃんだよ」
「……わ、わかりました」
「私たちもアンタが抜けて寂しくなるけど、同じ会社に居るんだから今度は社員として食堂に顔を出しておくれ。オマケもしてあげるよ」
「マミちゃん…うんっ、ありがとうございます」

 彼女の言葉が私の背を押してくれた。踏ん切りの付かない心にちょっとした隙間を空けて余裕を与えてくれた。感謝してもしきれないこの気持ちは、いつか恩返し出来るように取っておこう。
 通話を終えた私は、今年いっぱい食堂で頑張ろうと心に誓った。



 尾形さんが帰宅してから、私は彼の部屋に訪れて事の経緯を説明した。折角、食堂を紹介してくれたのにごめんなさいと謝る私に、彼はお前が決めたんならそれでいいんじゃないかと、頭を優しく撫でてくれた。
 優しく、壊れ物を扱うような手付きに温もりを感じながら、私はハイと返事をして頷いた。

「じゃあ、あと約二カ月か」
「そうなりますね。今年いっぱいだって言われたので」
「ったく……鶴見部長殿は誑し込むがお上手だ」
「誑し込むというか、強引に押し切られた感じですね」

 笑っている私に、笑い事じゃねえだろとデコピンする彼の威力は凄まじく、だああっ!と野太い悲鳴を上げて額を両手で抑えて悶えた。

 そんな波乱万丈な私の人生には、やっぱり彼が必要なのだ。


 私の世界は、尾形さんを中心に回っている。

「あ、ちなみに私は鶴見部長の部下になること決定みたいですよ」
「……は?」

 彼の顔が険しくなったのを見て、拙い事を言ったと気付くのには遅すぎた。






 季節はクリスマスを迎える二日前。
 二カ月とはあっという間だった。

 今年の期間限定メニューはアンコウ鍋で、とても好評だったのは言うまでもなく私も尾形さんもそれを美味しく頂いた。有給消化のために残り一週間は仕事も休みとなり、大人になって初めての冬休みだ。
 茨城の祖母の家に行くのもいいだろうと、クリスマスの事も楽しみで今年は色々あったけど結果オーライだったので良し。

 一人ショッピングモールに出掛けようとした所で、野々村さんから連絡が入り結局一緒に買い物をすることになってしまった。まあいいかと待ち合わせて、二人でいろんな店を回る。冬物の服もついでに買いながら、本来の目的であるクリスマスプレゼントを選んでいると「何探してるの?」と野々村さんが顔を覗かせた。

「んー……父にクリスマスプレゼントかな」
「ふーん。じゃあ、この色とか落ち着いてるからいいんじゃない?」

 マフラーを手に、無難な色を選んでくれる彼女の意見を聞きながら、なるほどなぁと頷く。
 本当は尾形さんにあげるつもりで買ってるんだけど、秘密にしておきたかった。

「野々村さんは何買ったの?」
「私は手袋!この色にするんだー」

 やっぱりセンスがいいなぁと彼女の手に持っているシックでカッコイイ手袋に、きっと尾形さんも喜んでくれると思うよと微笑む。ただもう一つ気になったのは、彼女の手に持つ手袋は一つではなかった。それは?ともう片方の違う手袋を指差すと、彼女は「これはまあ義理でもいいかなって思ってる人がいるの」そう言って何故か納得できないという顔をして口を尖らせていた。
 でも、彼女の耳はほんのりとピンク色で、それが私の中に疑問を生んだ。

「お父さんか…兄弟に?」
「違うけど……いいの。ちゃんが気にすることじゃないから!」
「はあ…わかりました」

 良く分からない彼女の反応に苦笑して、私はやわらかい生地で出来たマフラーを手に取る。色も薄紫に近い水色があり、綺麗な色だし尾形さんになら似合いそうだと、そのマフラーを購入することを決めた。

「へえ、その色にするんだね。若い人向けな感じするけど」
「ま、まあ…ね」

 会社で尾形さんがこれ付けてたら、絶対に野々村さんにバレるだろうなぁと後の言い訳を考えながらレジに持っていきラッピングしてもらった。
 受け取ってくれるといいけど……駄目なら祖母にあげてもいいや。

 ショッピングモールを出て、バス停まで歩く私たちの視界に冷たくひんやりしたものが肌に触れた。

「あ、雪だ」
「雪だわ!なんだかクリスマスらしくなってきたって感じね!」

 やたらテンションの高い野々村さんを見て、私も徐々に気分が乗ってくる。

「クリスマス、楽しみだねえ」
「本当に、私もそう思うわ。ちゃんはお出掛けの予定でもあるの?」
「それは秘密」
「いっつもそう!私には秘密ばっかり!」
「だってぇ…プライベートなことだし」
「ま、いいけどね。私も尾形さんに告白するし!」
「……え、告白するの?」
「するわよ?」
「いつ?」
「クリスマスの日に。一応少しだけお時間頂けることになったから」

 へ、へえ……。

 …………マジか。
 これって結構ピンチなんじゃと、私は全身に汗をかいた。