それは懐かしい夢だった。
ムンドクが連れて来たのは、ハクと同い年の子供。
すっげぇチビでまた弟が増えたのか、とお守役になる未来が見えた気がしたハク。
緋龍城に一緒に来ていたハクに、この子はだとムンドクが教えてやると、今日から風牙の都に連れて帰って共に暮らす事を話した。
「───ってことでハク、お前が面倒見ろ」
「また弟が増えんのかよー!」
「だぁれが弟じゃ!は女の子に決まっとろうが!」
「……えぇぇぇっ!?」
どっからどう見ても男っぽいに、ん、とハクは手を出して握手しようとした。でも、彼女は握手する気が無いのか手を出そうともしない。
ただの恥ずかしがり屋なのか、それとも第一印象で俺の事が嫌いになったかのどちらかだろうとハクは思い浅い溜息を吐いた。
の生まれは風牙の都じゃないことだけ、ハクはムンドクに教えて貰ってた。
まずは都を案内することになり、ハクの後ろを必死で付いて来るが危なっかしかったのか、ハクが手を繋いで引っ張ってやった。
「あそこが良く俺が盗み食いする団子屋で、あっちが───」
案内しながらの様子を見て、特に疲れた顔も興味を示す表情も見せない。まるで人形みたいに感情が無い子供に見えた。
───こいつって、ちゃんと笑ったりすんのか……?
が風牙の都で暮らすようになって一ヵ月、初めて会った時と全く変わらず無表情で笑う事をしない。しかも他の弟や妹たちと違い凄く大人しい。無理して笑ってもらうよりマシだと思うハクだったが、それでも彼女が笑わない以上に何に対しても関心を持たないことが気がかりだった。
今じゃ他の子供たちがを怖がって誰一人相手しようとしない。
「……なんじゃ、ハク。不貞腐れおって」
「べっつにー」
「明日は五部族会議がある。お前も来い」
「……いいけど」
普段のぶっきらぼうな雰囲気とはまた違って、ハクの機嫌に気付いていたムンドクは、が心配かと彼を見て言った。そんなんじゃねと答えるハクが、を一番に気に掛けているのは明白なのだ。
だからハクにを預けたというもの。
「じっちゃん……も連れてってくれねーか」
「駄目じゃ」
「ちぇっ…」
確かにハクの気持ちも分かるが、ムンドクはそれ以上に、彼女が自分で立ち上がる力を持って欲しいと思っていた。
どんな想いで両親がを護ったか───今やあの夜の記憶を失い、自分が何者か分からずもぬけの殻となったの心は閉ざされたまま。いつかは知る事になるであろう真実を思うと、ムンドクは彼女に強くあって欲しいと願っていた。
◇
五部族会議の日、ハクは空の部族・二番隊隊長をしているムトという男を探し回っていた。
ムトは風の部族でハクを小さな頃から知っていた、まさに兄のような存在だ。
小一時間ほど探し回り見付けられなかったハクは、どこに行ったんだよ…とまた不貞腐れていた。
「あら、ハク。来てたなら声掛けなさいよね」
「…なんだ、姫さんか」
「なによ。私じゃ不満なの!?」
ぷりぷりと怒りながら頬を膨らますヨナに、ムトさん知らねぇ?と尋ねる。久しぶりに城に来たハクは彼の所在が分からないままだった。
「最近、見なくなったわね……。どうしたのかしら?」
「姫さんも知らないってことは、他の兵士たちに聞いた方が早いな」
ハクが近くを通った近衛兵に声を掛けムトの所在を尋ねると、彼はもう城に居ないと告げられた。
今はどうしてるかも何処に居るのかも分からないという。
「……どういうことだ」
「何かあったの?ハク」
「ムトさん城を出たって」
「えっ」
ヨナもこの事については知らされていなかったのか、驚きと彼が居なくなった悲しみでしょんぼりする。五部族会議が終わったらムンドクに聞いてみようと考え、今は姫さんの世話でもしとくかとハクは後ろ髪を掻いた。
五部族会議を終えたムンドクがハクを迎えに来ると、帰りの道中でハクは城で聞いた事を話した。
「……あやつのことは、もう忘れるんじゃ」
「?どうしてだよ」
「ムトは…あの男は、もう風の部族ではない。だから忘れろ、ハク」
ムンドクの言っている意味が理解出来ないハクは、ただ彼の顔を見て自分は何も言えないんだと分かった。泣き出しそうな瞳で遠くを見据えるムンドクの背中が小さく見えた。
風牙の都に戻ってからハクは直ぐにを探した。彼女が何処にいるか大体分かる。
日当たりの悪い空き部屋の隅でぽつんと足を畳んで座っているに、ハクは小さく溜息を吐くと腕を引っ張り無理矢理立たせた。そのままズルズルと引き摺って廊下に出すと、漸く明るみに出たのかは眩しそうに目を細めるのだった。
「飯食ったか?」
「………」
「昼寝はしたか?」
「………」
「………」
ウンともスンとも言わない彼女に、今度は大きな溜息が漏れる。
どこを見てるのか、何が見えてるのか分からない彼女の瞳がハクを見た。揺れる双方の金色の瞳はいつ見ても綺麗なはずなのに、今のハクにはただのガラス玉を嵌め込んだ人形にしか見えない。
「お前さ、ちゃんと言わねぇと何も分かんねえぞ」
「………」
すると、は閉ざしていた口を少しだけ開く。
何か言うのかと期待するハクだったが、その薄く開いた口はスッと閉ざされた。その場でガクッと肩を落とすハクだったが、が少しでも何か言おうとしてくれたのだと分かると、ちゃんと人間だったんだと思えた。
「今日から俺と一緒の布団で寝ろ!いいな?」
が小さく頷くと、初めて見せた彼女の反応にハクは内心嬉しくなった。
そして、こんなに手のかかるガキは初めてだと苦笑するのだった。
◇
約束通り部屋にやって───来ないを、ハクが部屋まで連れて来ると布団の中に無理矢理突っ込んだ。
最初はキョトンとしていただったが、布団の裾を摘まんで顔を半分沈めるとハクをチラッと見た。
ハクは俯せで小さな蝋燭の明かりの中、ムンドクに読むように言いつけられていた本と睨めっこしてる。なんだこの漢字は…と、まだ知らない漢字もある所為か中々先に進まない。むぅ、と口先を尖らせていたハクは、横でがもぞっと体を動かしたのに気付いて、視線をそちらに向けた。
ハクの読んでいた本を同じような体勢で眺めるに、もしかして本が好きなのか?と彼女の関心する姿に目を離せなかった。
「……そうめい」
「へっ?」
小さな手の指がそっと差す場所は、ハクの読めなかった漢字だ。
「へえ……お前、漢字得意なのか?つか初めて声聞いたかも」
「……ごめん、なさい」
「えっ」
何故かは謝ると布団の中に潜ってしまった。
……しかし、此処はハクの布団。ハクも潜るとを外に引き摺り出し、顔だけでも拝んでやろうと両手で彼女の頬を押さえて自分の方へ向かせた。
しっかり見ないと分からないぐらい彼女の目は真っ赤で、泣いた痕が残っていた。
「……泣いたのか?」
「………」
「また、だんまりかよ……。なんでさっき謝った?もしかして里の奴に何か嫌なこと言われたか?」
彼女は顔をふるふると横に動かす。
里の人がどれだけ人情深い人たちかは知っていた。彼らが自分に酷いことをした事は一度も無い。
「おか、あ……さ、ん……っ」
「……何言って」
「う、うぁ……あぁ…ッ」
ぼろぼろと溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
都に来てから、何も喋らず、笑う事もせず、泣くこともしない。
なのに彼女は今、ハクの前で……初めて人前で声を上げて泣いた。
ハクはただ黙って彼女をぎゅっと抱き締めると、幼子をあやすようにトントンと背中を叩いてやる。次第に落ち着いてきた彼女が、次に見せたのは寝顔だった。
彼女はムンドクに連れられてやって来た。家族の詳細について何も教えて貰えない。彼女が一体何者なのか、何のためにこの里にやってきたのか……知らない事ばかりの他人なのに、絶対に俺が守ってあげなくちゃいけないとハクは思った。
それから、はハクに引っ付いて歩くようになった。
前の様に部屋の隅で足を抱えているだけの存在ではなく、ちゃんと意思表示をするようになると、次第に他の子供たちも彼女に近付いてきた。
やっと里に馴染み始めたなあと遠巻きに見ていたハクは、それでも彼女が笑わないのが気がかりだったが……まあ、これでもだいぶ成長した方だよなあと、とりあえず自分を褒める事にした。
「、今日はじっちゃんと修行するぞ」
「……うん」
ハクの後ろをてとてと付いて来るはまるで親鳥について行く雛鳥だ。
「じっちゃーん!連れて来たぜ!」
「おう、来たか。待っておったぞ」
稽古場に来るとハクは嬉しそうな顔をする。
はハクの笑った顔を無意識に追う。見ていると胸の中がポカポカするのだ。
二人の稽古を見ていると、次はが呼ばれてムンドクの前に立った。好きに動いていいぞと言われ、どう動いていいのか分からないまま、ムンドクの攻撃が来た瞬間は無意識に体が動いた。
あまりにも自然に動いた体が、彼女自身も不思議でたまらなかった。
「ほう……良い動きをするのぉ」
脳裏に浮かんだのは、母に教えて貰った一族に伝わると言われた舞いだった。
何故かハクの脳裏にも、とある人の顔が、動きが浮かぶ。
「……ムト、さん」
無意識にムトの名前を呟いたハクは、何故か彼の動きとの動きが重なって見えたのだ。
以前、ムトの動きを真似ようとしたハクに、これは自分の妻がいた一族に伝わる舞いを模倣したものだよと教えてくれた。そして今のハクにはまだ難しいだろうからと困ったように笑っていたのだ。
稽古中、ハクはずっとを見ていた。決して目を離さぬように───
◇
「………とんでもねえ夢見ちまったかもしれねぇな」
起きて早々、ハクは懐かしい夢に静かに息を吐いた。
木の上で眠っているを見て、何でこんな大事なことを忘れてたんだと思い、皆を起こさないように立ち上がる。
ムンドクに連れられて風牙の都にやってきた。
その一ヶ月後に五部族会議でハクが緋龍城に行くと、慕っていた兄のムトが城を出ていた。
以前ムトが言っていた、妻の一族に伝わる舞いを模倣した武術。
それと同じ動きを稽古中に見せた。
見えない糸を手繰り寄せていくと、次々と繋がっていく。
は両親共に白狼一族だと言っていた。
しかしハクと出会う前のは記憶が曖昧で……
彼女の記憶は、本当に正しいものなのだろうか。
そう見させられているだけだとしたら───
「ああぁぁ!考えるだけで頭が痛くなる…!」
今の彼女がいるだけで充分じゃねえかとガシガシと自分の髪を掻いたハクは、余計な煩悩を消す為に大刀を持って朝の修行をしに行った。