軽い運動なら大丈夫だとユンに許可を貰い、体を慣らす為にイクスがよく神の声を聞くという場所に訪れていた。
そこは滝のある場所で小さな粒子となった水しぶきが周りの空気を涼しくしている。イクスに軽く会釈をすると、彼も笑顔でいらっしゃい、と迎えてくれた。
隣に座りただ静かに滝の音だけ聞いていたに、体は大丈夫なのか心配するようにイクスが声を掛ける。お蔭様で元気になりましたとイクスにお礼を言い見上げると、イクスの長い前髪の隙間から見えた瞳が此方を見詰めており、ぱちりと目が合ってしまった。
「貴女はご両親共に、綺麗な金色の瞳をされているのですね」
「え?父と母に会った事があるのですか?」
「ええ。私が神官見習いをしていた頃ですが、何度かお会いしましたよ」
ムンドクやイル陛下以外にも、両親と会った人がいたことには驚いた。
「……その、両親が白狼一族の者であることも知っていたのですか?」
「はい。当時の神官たちは皆、知っていましたよ。ですが白狼一族のことで口外を禁じられていたので、今では陛下や神官である私、そして白狼一族と深い繋がりのある風の部族長であるムンドク様のみが知っているはずです」
白狼一族が風の部族と深い繋がりがあることは初耳だとは小首を傾げた。両親にも、ましてや風の部族長でもあったムンドクにも聞かされていない話しだ。イクスに聞けば何か教えて貰えるのだろうか。そう考えているところにハクがやってきた。
「おー、二人して何やってんですか。神の声でも聞こえましたか?」
「ハク……、怪我はもういいの?」
「俺は別に。つーか不覚にもお前に庇われたせいで、何とか生きてたっつーか」
「なにそれ。嫌味なの?それともお礼でも言ってくれてるの?」
ハクのはっきりしない言い方に、は思わずフフッと笑い始める。笑うとまだ治っていない部分に響いて痛い。笑いと痛みの両方で目尻に涙が浮かぶとそれを指で拭った。彼なりの照れ隠しなのだろうか、は彼の優しさに触れてまた先程とは違った笑みが零れた。
風の部族と白狼一族の関係について聞いてみたいが、イクスとまた話せる機会はあるだろうとその場を後にした。ハクは調理用の魚を取りに来たと言い、も一緒に運動がてら同行することにした。目的の川に辿り着くと、二人は靴を脱ぎズボンの裾を膝上まで捲りあげると、川の中へザバザバと入っていく。
「ハク、私がお前の所まで魚を追い詰めるから、捕獲は頼んだ」
「おう任せろー」
すると、は白狼の姿に変化すると、水音を立ててハクの方へ徐々に近づいて行く。そして追い詰めた魚をハクが大刀を使って一気に三匹串刺しにした。同じように何度か繰り返し、人数分の魚を捕まえた後は岸に上がり脱いでいた靴を履き帰り支度をする。
「ハハッ、犬ッコロが水遊びしてるみてぇだったな」
「うるさいよ。こっちの方が効率が良かったんだから仕方ないじゃん」
「ま、別にいいんだけどよ。なあ、狼になった時のお前をいつか俺にも触らせてくれよ」
もし立場が逆なら同じことを言っていただろうと、はふっと笑みを零すといいよ、と返事をした。
「お前の毛って綺麗だし、もふもふしてて触り心地良さそうだったもんなあ」
帰り道にハクが楽しそうに語るの狼姿に、褒められて悪い気はしないと自然と頬が緩む。
「そういや、お前って昔から綺麗な金色の瞳してっけど、狼の姿になってもそこは一緒なんだな」
「白狼一族の特徴は、この金色の瞳なんだ。私の両親や先祖も、みな同じ瞳の色をしていたし、そう聞かされた」
「へえ。面白いな」
面白いところなんてあったか?とキョトンとするに、なあ、とハクは更に口を開くと立ち止まり言った。
「人間の姿の時も……触っていいか?」
「え、っと…それは……」
そんな風に言われると思っていなかったは、歩みを止めて彼に振り返ると言葉を詰まらせた。人間の姿に興味を持たれることは無いと思っていた彼女は、ハクの言葉の意味が理解出来ず、ただ彼を見詰め返すだけで精一杯だった。
「……俺はお前を…他の奴に譲る気はねえからな」
ハクはそれだけ言うと、すたすたと先に行ってしまった。
◇
食事中、はハクに言われた言葉が忘れられず、頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
あれはどういう意味だったのだろう。彼の言いたいことは、仲間として?
それとも……ヨナがスウォンに抱いていた気持ちに似たものなのだろうか。
「、どうしたの?」
「へっ?あ、いえ、何でもありません主様」
「ボーっとして、ずっと食べてないじゃない。もしかして食欲が無いのかしら?」
「あ、えっと、その……少し涼んできます!」
様子のおかしかったに声を掛けたヨナだったが、その場から彼女は逃げるように立ち去った。追い掛けようとヨナが腰を浮かすと、それを引き止めたのはハクだった。
「姫さん、俺が行ってくるんで食べててください」
「えっ!?ちょっとハク……!」
また自分は置いていかれたとヨナが頬を膨らませていると、一応三人の様子を見ていたユンが「まあハクに任せとけば?どうせアイツが余計な事言ったんじゃない」と特に気にするわけでもなく淡々と食事の続きを始めるのだった。
一方その頃、思わず逃げてしまったは生まれつきの跳躍力で木の上にひょいっと登ると、太い枝の幹に腰を下ろして大きな溜息を吐いた。川魚を獲った帰り、ハクに熱の籠った視線を向けられ、とても平常心でいられなかった。
自分にとってハクは一体どんな存在か改めて考える事になり、昔の事を思い出す。
あれは、とても寒い冬のことだった――――――
が齢八となったばかりの冬、しんしんと雪が高華国に降り注いでいた。
白い息を口から吐きながら、室内の訓練場でムンドクに体術の稽古を付けて貰っていた。
そろそろ休憩にしようとムンドクが口にすると、稽古を見ていたハクがに近付きフフンッと見下ろすと「お前ってやっぱチビだな」と悪戯っ子のように笑った。特に気にした様子もないは、ただ彼を見上げて「じじ様の説教と、じじ様のケツ叩きのどっちがいい?」と言った。どちらも嫌がらせじゃないかとハクはこの会話がムンドクに聞かれていないことを確認すると、に小声で「今日の夜は俺の部屋に来いよな」と言い歯を見せてニッと笑う。またいつもの悪戯かとは彼が何か企んでいることを分かっていながら「いいよ」と頷いた。
その日の夜、ハクの部屋の前まで来ると既に準備万端なのだろう彼は廊下で待っていた。を見付けると遅せぇよと挨拶代わりの言葉を発したあと、これから何をするのかハクから聞かされたは、二人でとある場所へ向かう。
(……おい、そっちの様子はどうだ?)
口パクで言うハクに対して、は大丈夫なことを手で合図すると最後は小さく頷いた。
そして二人がこそこそと足音を忍ばせて忍び込んだのは厨房だった。今日の夕餉に出された肉まんが大変美味だったので、余った分を夜にこっそり食べようというハクの提案だ。こうやってハクと厨房に忍び込むのは何度目だろうか、そんなことを考えながら目的の肉まんを見付けるとは小さな声でハクを呼んだ。
大きな肉まんが大皿に乗っており、夕餉の時の温かさは無いが香りは絶品だった。ハクが一つ手に取ると半分に割りに渡した。
「……私も食べるの?」
「あったり前だろ。俺だけ説教されるのは御免だからな」
「ハァ……また、じじ様に怒られなきゃいけないじゃん」
「見付かんなきゃいいんだよ」
言われた通り、ぱくりと肉まんを頬張り口をもごもごさせるを見て満足したのか、やっぱりうめぇなとハクも大きな口を開けて頬張ると嬉しそうに笑った。自分だけに向けられるハクの笑顔を見るだけで、の心はポカポカと温かくなる。ヨナの時とはまた違った彼の笑顔が好きだった。
調理台を背に二人で座って肉まんを頬張りながら、はハクに今考えている胸の内をぽつりぽつりと話し始めた。
「……大きくなったら、外の世界をもっと見てみたい」
「なんでだ?」
「亡くなった父様が教えてくれた話しは、外の世界を知らない私には想像することが出来なかった。だから、ちゃんと自分の目で見て確かめたいの」
「さすらいの旅人ってやつか?楽しそうじゃねーか。その時は俺も混ぜてくれよ」
「…別にいいけど」
食べ終えた指をペロッと舐めては一瞬だけ笑みを見せる。
ハクは彼女が両親に連れられて緋龍城に来てから、少しずつ笑顔が増えてきたとムンドクが言っていたことを思い出すと、何故があまり笑わないのか気になり問い掛けた。はきょとんとした顔のまま小首を傾げると、どうして笑わないといけないの?と逆にハクへ問い掛けるのだった。
「なんでって……、そりゃお前が笑うと姫さんとか、じっちゃんとか……ぽよんだって喜ぶじゃねーか」
ぽよんって…ああ、イル陛下のことか。とはそこだけ納得すると、自分が笑うとヨナもムンドクも陛下も喜んでくれるのかと、今まで考えもしなかった事を今になって考える事となった。
「それは、ハクも同じなの?」
「ああ、そうだな。が笑うと俺も嬉しい」
「そっか……、じゃあ、そうする」
「あー、俺に言われたからするんじゃ命令みたいで嫌だからやっぱりするな」
「え?どっちなの?」
「えーっとだな、お前の胸ん中が温かく感じたら、それは嬉しいってことだ。お前が嬉しいって思った時に笑うんだ」
「……胸の中が、あったかく、なったら」
「そうだ。俺もが笑うとここが温かくなる」
ハクはそう言って自分の胸にこぶしを当てるとニシシッと笑った。
―――――あれから十年経った今も、彼の言葉を忘れた事はない。確かにハクやヨナが笑うと嬉しい。嬉しい筈なのに、いま感じている胸の中でざわめく熱は違う。この苦しいという気持ちを知ることが怖い。
「……やっぱり、木の上に居たか」
昔の思い出に浸っていたは、ハクの声にハッとした。色々と考えていた所為で全くハクの気配に気付かなかったは、ヨナから逃げたことにバツの悪そうな顔をした。だからといって、この中途半端に苦しい気持ちのままヨナの前で胸を張って堂々と立っていられる気がしなかった。
ヨッとのいる木に登ってきたハクは、横に座ると「俺の言ったことに悩んでんのか」と言った。その通りなのだが、彼の前でつい意地を張ってしまうは「別に」と素っ気ない態度で返事をする。こりゃ絶対に認めないって顔してるな、とハクはの様子を見てフッと笑う。
「別に謝ったりしねぇからな、俺は」
「謝って欲しいなんて一言も―――」
「それに、お前がバカで鈍感だからハッキリ言っておく」
「なっ!?誰がバカで鈍感だ…!」
「好きだ」
「……えっ」
ざわりと吹いた風が木々を揺らした。本来ならその音にハクの声は掻き消されていただろう。しかし彼女の耳にはハッキリと聞こえた。知らないままでよかったはずの言葉は、の鼓動を大きく跳ね上がらせた。彼の言葉の熱量は、男が女に向けるものだった。
けれど、は彼の気持ちに答えることは一生出来そうになかった。彼女は獣神で、ハクは人間だ。
生きる意味も、生きる世界も違う。
今はヨナを護るために人間と共にいるが、本来は都を作らず住処を常に変えていくのが白狼一族の生き方だ。両親にそう教わっていたは、なぜ風牙の都で風の部族たちと共に育てられたのか、緋龍城に居た頃は何度も同じことを考えた。元々、住む世界が違う……。
「……ハクの気持ちは嬉しいけど、私は」
「別に返事が欲しくて言ったんじゃねぇよ。お前にずっと浮かない顔されるよりマシだと思っただけだ」
照れ臭そうにしているハクに、は分かったと返事をする。
彼はやっぱり優しいと、ふと微笑みながら夜空に浮かぶ三日月を見上げた。
次の日、ヨナはイクスから神の声である天命を聞き、幼い頃に父であるイル陛下に読んでもらった建国神話を思い出した。
そして、その物語には隠されたもう一つの話しがあるとイクスは教えた。
建国神話に登場する四龍とは別に緋龍王に仕えた白銀の獣神がおり、その獣神は月の光を浴び黄金に輝く粒子を身に纏いながら気高くも聡明な白狼―――、それが今の白狼一族であり、先祖の血を濃く受け継いだのことだった。
「は貴女の為に生き、貴女の為に死ぬことを望んでいます」
「そんな…っ」
ここに来るまでも、ずっとそうだった。自分は護られてばかりで何一つ武器を振るえない。お荷物よりも酷い。
「このまま、私はお荷物だって思われても良い。だけど、何も出来ない護られてばかりのお荷物にはなりたくないの」
ヨナは自分も強くならなくては駄目だと、四龍を探すことを決めて二人に報告しに行った。