風牙の都を目指す事になった三人は、山を歩き何度か夜を過ごすことになった。少しずつ喋ることをするようになったヨナだったが、それでも緋龍城での出来事が深い傷となって精神的に重く圧し掛かる。何とか食べ物を口に入れて貰いたいが、彼女は食事することもしてくれない。無理矢理、口をこじ開けて食べ物を突っ込んでもいいのだが、そんな手荒な真似は絶対に出来ない。
「主様、少し歩いたところに滝がありましたので、水浴びでもしてきますか?」
「……ええ、そうね」
見張りをハクに任せ、は周辺に異常はないか見回りに行くことにした。こういったことは鼻や耳の利く彼女の得意分野でもある。とくに異常も見られなかったので、戻ってみるとヨナの悲鳴が聞こえ駆け付けると、彼女の足に数匹の蛭が引っ付いていた。ハクと一緒にその蛭を取り除くと、彼は着替えを置いて立ち去る。
「主様、お着換えのお手伝いを致します」
「大丈夫よ…、ありがとう」
彼女の着替えを待つに、ヨナは微かな声で呟いた。、絶対に死なないで、と。
その言葉は、の耳にしっかりと届いていた。ぐっと握りこぶしに力を入れると、脳裏に浮かぶのはスウォンの顔だった。今のヨナはまるで意志のない人形そのもの。これが彼にとっての望みだったというのだろうか。今でも現実を直視出来ず、ただの悪夢だったのではないかと思うのはヨナだけではなくも同じだった。
「姫様、必ずお守り致します……必ず」
命に代えても――――、小さく呟いたの声は木々のざわめきに飲み込まれていった。
一通り山を歩いた後、丁度いい洞窟を見付けた三人はそこで野宿をすることになり、集めた薪に火を付けて暖を取った。すると、ヨナは何かを探すように自分の服にパタパタと触れていた。その様子に気付いたが何かございましたか?と問い掛けるが、彼女は何でもないと言い、スッと立ち上がると直ぐに戻ると言って洞窟から出て行った。
遠くまで行くことはしないだろうとは匂いと音でヨナの所在を確認しつつ、今にも探しに行こうとするハクに、ずっと気になっていたことを聞く。
「ハク、お前から主様の匂いがする」
「は?何言って、」
少しだけ動揺するハクに、は人差し指でハクの懐を指差した。まるでここに何かあるとでも言うように。
ヨナが洞窟を去ってから、未だに残っていたヨナの匂いがハクから漏れていたので、それが確信へと変わったのだ。
「……ハァ、悪かったよ。ほら、これ」
「これは…、確かスウォンから誕生日に貰った主様の簪。どうしてハクがそれを」
「拾ったんだよ。今日、姫さんが水浴びしてる時に」
「そうか。もしかして返しそびれたのか?」
「ま、まあ……そんなところだ」
これは嘘を吐く時の間の取り方だと気付いたは、まあ彼なりに何か思うことがあるのだろうと、これ以上何も突っ込まないでおく事にした。刹那、はヨナの周囲に違う生き物の匂いを嗅ぎ取った。
「……これはマズい」
「は?」
「主様が危ない!」
突然、緊迫した空気を纏ったの言葉の後に、ヨナの悲鳴が森から聞こえた。二人は一目散に走り出し、嗅ぎ慣れたヨナの匂いが簪に付き、それに気を取られ過ぎていた所為で、彼女に危険が迫っていると気付くまでに遅れてしまったとハナコは焦った。駆け付ければヨナは蛇に囲まれており、ハクにヨナを抱えさせそのまま逃がすと、はその二人に危害を加えようとする蛇たちを払い除ける。ハクの痛みを耐えるような声に、噛まれたのだと気付き、彼らが走り去ったあと白狼の姿へと変化した。
このまま人の姿をしていては、二人を守るどころか主君であるヨナですら守る事も出来ない。蛇の巣窟から逃げ切ったは彼らを見守るように遠くから白狼の姿で周囲を見張ることにした。
二人が洞窟に戻り、ハクが毒抜きの手当てをしている姿を確認した後、は付近にある高い崖まで登る。すると、心地の良い音色が耳に聞こえ、それはヨナに渡した笛の音色だと気付く。彼女はそれに呼応するように、二人に危害を加える者が居れば噛み殺すという意思を乗せて天を仰ぎ空高く吠えた。その美しき声は二人の耳にも届き、ハクの視界で捉えたそれは月の光を浴び、綺麗な銀色の毛を輝かせる白狼の姿だった。
そして彼が思うのは、ムンドクの話しが嘘ではなかったということだ。
早朝、蛇の巣窟から抜け出したあと、戻って来なかったを心配してずっと洞窟の外を眺めていたハクは、朝陽で逆光となっていたが見知った姿を発見して胸を撫で下ろした。眠るヨナの隣に座っていた彼は立ち上がるとの所まで駈け寄り、無事だったか、と声を掛ける。彼女も怪我無く飄々としていたので、何処かで同じように野宿をしていたのだろうとハクは思った。
ハクの背後に見えた、今も小さな寝息を立てているヨナを見ては微笑むと、朝食になりそうな魚を取って来ると言って、滝のある方へふらりと歩いて行ったのだった。
そうして、無事三人はハクの故郷であり、にとっても第二の故郷となる風牙の都に無事辿り着いた。三人を出迎えてくれたのは、明るく陽気な風の部族たち。見張りをしていたヘンデとテウがユルい挨拶をする姿や、風の部族たちの様子を見て緋龍城で起きたことがまだ彼らの耳に届いてない事が分かった。
「様!」「お久しぶりです様!また一段と美しくなられて!」
風の民たちが集まり三人を歓迎する中、の事を幼少期から知っている者たちは、彼女の成長ぶりに遠い親戚や親族のように反応をする。幼少期のは男の子に間違われる程、大人しく凛とした姿が目立っていたが、成長するにつれて体付きも女性そのものとなり、髪も伸びた所為か幼少期のことがまるで嘘かのように見違えるほど変貌を遂げて美しくなっていた。
「これじゃあ男たちも放っちゃおかないだろうねぇ。どうだい、私の息子の嫁さんになってくれやしないかい?」
「え、え?」
「いやいや、ちゃんは是非私の息子の嫁さんになっておくれよ」
「あ、あの」
「おい、アンタら。あんまりコイツを困らすんじゃねぇよ。戦う事に関しちゃ天下一品だが、家事はからっきしだぞ」
ハクのフォローのような、そうでもない横やりもあり、何とかその場を収めることが出来たは、ヨナの容態が気になるからと皆の輪から抜け出す。きっと緊張の糸が解けて倒れてしまったんだと、は布団に眠るヨナの頭を撫でて微笑んだ。
「主様、ずっと寝れてなかったでしょう。しっかり静養なさって下さい」
床を歩く足音が微かに聞こえたので顔をそちらに向けると、眠っているヨナを気遣って足音を立てないようにハクが部屋に入ってきた。
「、話しがある。今大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。部屋を変えようか」
「あぁ、助かる」
ハクと空き部屋へ移動し、これからのことについて話す事になった。
「姫様のことは緋龍城の女官でリナと名乗らせる事にする。今回の事で皆に迷惑かけることは出来ねぇ。それに風牙の都が危険に晒されるとなっちゃ戦争しかねんからな」
「そうだね。主様のことを女官と偽って呼び捨てにするのは気が引けるけど、彼女の為でもあるし」
それと―――、ハクは此処に来てからムンドクの所在について聞いた所、突然の五部族召集で緋龍城へ向かったことをに教えた。これは次期国王となるべくスウォンが五部族の承認を得る為に呼び出したのだろうと気付いたは、ハクが緋龍城に居ない今、ムンドクがハクの所在を知らないままスウォンの国王即位を承認するとは思えなかった。
「今頃、じじ様はハクが緋龍城に居ないことを不審に思ってるはず。簡単にスウォンの国王即位を許すとは思えない」
「……そうだな。あ、お前って下町で薬貰ってたよな?これからどうすんだよ、お前の病気とか」
どうもこうも、どうする事も出来ない。いつかはバレてしまうこと、承知の上で二人に付いて来たのだ。今更引き返すことも、緋龍城に戻ることも叶わない。大丈夫とだけ言って、は微笑むと窓辺から見える空を見上げた。
「あー、でも懐かしいなぁ。昔さ、ハクの悪戯に巻き込まれた私が同じようにじじ様に説教されたの覚えてる?」
懐かしい話をするもんだと、ハクは彼女の後ろ姿を見詰めながら昔のことを思い出すと頬を掻く。
「そんなことあったか?」
「あったよ。数えきれないぐらい」
「そ、そうかよ。でもお前は別に嫌がったりしなかったじゃねーか」
「確かにそうだったかも。あの頃は本当に楽しかったなぁって思ってさ……。馬鹿やって怒られて、でも最後はじじ様にぎゅーってしてもらうの」
「俺は嫌だったから逃げてたけどな」
「ハハッ、確かに。私は好きだったよ、ぎゅーってされるの」
話している内に、も漸く緊張の糸が解れたのか自然な笑みが零れる。
その表情が窓ガラス越しに見えたハクはぎゅっと胸の奥が詰まった。
彼女と出会ってから、お互いに成長するにつれて感じていた不可解な感情にずっと悩まされていた。いつもこうしてが自然体で笑った時に、ハクは心臓が痛くなる。子供の頃は何かの病気かと思ったが、今は理解することが出来る。
の体を背後から包み込むように抱き締めたハクに、じじ様の真似でもしてくれるの?と鈍感なは笑って気付かないまま。彼がどんな気持ちで抱き締めているのか知る由も無いのだ。
「お前さ……、俺の事どう思う?」
「え?何いきなり」
「いや、なんつーか、その……」
ハクが続きを言おうと口を開いた時、微かだがヨナの起きた気配を感じたはガバっとハクの方へと振り返った。突然のことに、思わずウオッと声を上げて離れたハクは、彼女が颯爽と部屋から出て行く姿を見送ることしか出来ないのであった。
を追って、何となく行きそうな場所に向かえばそこに彼女は居た。ハクの弟、テヨンが用意したご飯を食べるヨナの姿を見て、は嬉しそうに彼女に話し掛けている。ご飯が温かくて美味しいとヨナが涙を流すと、用意した食事が不味かったのではないかとテヨンが心配し、その姿にもヨナも、そして三人を眺めていたハクも同じように笑った。
食事を終えたヨナはと一緒に湯浴みをすると、久しぶりに浸かった温かなお湯に小さな溜息を吐いた。漸く一息出来たとはウーンと両手を前方へ突き出すと伸びをする。ぶくぶくと湯船に口元まで浸かると隣にいるヨナを見た。彼女も久しぶりにまともな食事と温かい湯に浸かることが出来て、人心地ついた表情をしている。そしてヨナの首から下げられた笛を見て、彼女はちゃんとお願いした通り肌身離さず付けてくれている事に目元が緩む。
「ねえ、は私とずっと一緒に居てくれる……?」
突然の問い掛けに、は湯船に半分浸けていた顔を出すとフッと微笑み、当たり前ですと答える。
「あのね、これは私の我儘だって分かってるつもりよ?ハクも、も……失いたくないの。ずっと私の傍にいて欲しい」
「主様あっての私ですから、ずっと貴女のお傍にいますよ」
「……ありがとう」
緋龍城での凄惨な出来事は、一生癒えることのない傷となった。それはヨナだけではない、やハクにとっても。