「どうか…、赦して」
 ―――
 消え入る声で紡がれた言葉の意味を、幼さ故に少女は理解することが出来なかった。
 どうして母が目の前で血だらけになり、少女に謝り続けたのか。


 これは一人の少女が決められた運命に抗う儚くも美しく生きた物語。






 貴女って本当に綺麗な藍色の髪ね。高華王国、第一皇女ヨナ姫が一人の少女の髪の毛を一房優しく掬い上げるように触ると言った。そろそろ飽きてもいいのではないかと思うぐらいに、彼女は毎日一回はの髪を見ると触りそう言うのだ。ヨナもまた綺麗な紅い髪をしているのに、そう思うは敢えて口に出さず庭園の岩に座り廊下の手摺りを背凭れに髪の毛を撫でられていた。

「主様、あと十日ほどで十六歳ですね」
「ええ、そうね。と出会って、もう十年は経つかしら」

 ヨナは微笑みを見下ろし、彼女の視線を感じながらもは空を見上げて口元に笑みを浮かべた。

「主様のお側にいると、とても心地が良いのです」
「あら、嬉しいこと言ってくれちゃって。ハクと違っては本当に可愛げがあって大好きよ」
「俺がなんだって?」

 いつの間にヨナの背後に立っていたのか、神出鬼没なハクはヨナの横に立つと片腕を支えに手摺りに置くとフッと笑った。またコイツの髪を触ってたのかよ、との頭を指差して言えば、だって綺麗じゃないとヨナは答える。ハクはアンタら対照的だよなあ、と呟き顎に手をやり交互に彼女たちを見比べた。

「あ、そうだ。俺はコイツに用があって来たんだ。姫さんには悪いがコイツ借りるぜ」
「あのねぇハク!コイツじゃなくて、よ!ちゃんとって名前があるんだから!」
「あーはいはい。すみませんでしたー」

 ハクとヨナの言い合いも日常茶飯事で特に止める気もないは、大方ハクの用件を理解しているのか座っていた腰を上げて、手摺りをひょいっと乗り越えると廊下を一人で歩いて行ってしまう。そんな彼女に気付いたハクも、ギャンギャン吠えるヨナを置いて駈け寄った。

「突然呼び出して悪かったな」
「別に気にしてないよ」

 隣を歩くを横目に、ハクは本当にコイツって周りに興味を示さねえよなあと思った。彼女はヨナを護るという使命を全う出来れば、周囲のことなどまるで意を介さないのだ。つまり、主君であるヨナ姫以外興味なし。普段からニコニコと笑顔を絶やさずにしているので、周囲からの印象はとても良いものだが、

「お前さぁ、そんな風にずっと笑ってて疲れねえ?」
「周りに敵を作らない方法の一つだと思ってるから」

 どうやら、貼り付けたような笑顔は彼にお見通しらしい。









 訓練場でハクと一戦交えるつもりが、いつの間にか白熱した試合となり陽も傾き始めていた。そろそろ戻ろうと声を掛けたのはの方で、ハクも汗を拭いながらあぁ、と一言返事をする。ハクもと同じくヨナの専属護衛として忠誠を誓っているので、ずっとヨナから離れているわけにはいかない。
 ハクとは一度別れ、訓練場から戻ったことをヨナに伝えた後、汚れと汗を落とす為に湯浴みに行く。本来ならお湯に浸からずとも、水浴びすれば済む程度の身体なのだが、それを許さなかったのはイル陛下だった。

「フフ、懐かしい事を思い出してしまった」

 湯船に浸かりながら、は緋龍城へ初めて訪れた時のことを思い出していた。

 は両親共に、白狼一族の血筋であり、王家に仕える獣神の家系。自在に人から狼へと姿を変えることが出来るが、一族の中でもは特別な力を持って生れたのだった。満月の夜のみ、身体が沸騰するように熱くなり狼の姿へと強制的に変化してしまう。しかし、それは血を濃く受け継いだ者のみに発症するもので、両親にそのような傾向がみられることはなかった。
 一族は何者かによって滅ぼされ、偶々城下町の町医者の家に居たのみが生き延びる結果となり、今ではその血を継ぐ者は彼女一人となってしまったのだ。母からは、決して人前で弱い姿を見せてはいけないとされ、泣くことを許されず、強かに生きろと言われ続けていた。

 真冬に初めてヨナと出会い、汚れた体を洗う為に川へ水浴びに行こうとするを引き留めたのはヨナだった。ヨナには獣神であることを知らされていない。どう言い訳をしようか考えている内に、彼女に引き摺られ浴場に強制的に連れて行かれると湯浴みをさせられ、終いには同じ床で寝かされてしまったのだ。ヨナにとって、同じ年頃の少女と遊んだり一緒の布団で寝ることが夢だったと、寝静まる頃にぽつりぽつりと幸せそうな顔をして教えてくれた。

「結局、水浴びする時は姿も変えるのだから、風邪を引くことは無いのだけど……」

 ザバァと水音を立てて湯船から出ると、直ぐに着替えてヨナの部屋の前へと戻った。彼女はヨナの部屋の前―――扉付近の柱に背を預けて暇を潰す事が多い。他者と言葉を交わす時は常に笑顔を繕っていることが多いので、一人の時が唯一心を落ち着けることができる瞬間でもあった。
 すると、扉がキィと小さな音を立ててゆっくり開かれると、そこから顔を覗かせるヨナの姿には伏せていた顔を上げると報告適度に「先程戻りました」と告げた。

「もうっ、戻ってたなら声掛けなさいよ。今、お茶を淹れたのよ」
「そうですか。ですが私は此処で見張りの仕事が―――」
「つべこべ言ってないで入って頂戴!」

 ヨナの誘いに対して最初に断りを入れるのは彼女の癖のようなものだった。そんなこと分かってるからと、それを強引に引き摺り込むのもヨナの役目だ。強引に手を引かれ部屋に連れ込まれると、既に部屋でお茶を御馳走になっていたハクの姿が視界に入り、ハクもを見て適当に挨拶を交わすと、お互いにいつもの面子だなぁと苦笑するのだった。
 さっそく、お茶を頂くことになったはハクの隣に立つと湯呑を両手に一口だけ飲む。そして直ぐにこのお茶はヨナが淹れたものだと気付くと、これは主様がお淹れになったのですね美味しいですと感想を述べた。

「ほらぁ!は絶対に私が淹れたものだって直ぐに気付いてくれたわ!」
「あーそうですか。こんな不味い茶を飲まされたんで毒でも盛られたのかと思いました」
「こんの下僕!ほんっとうに可愛げが無い!」

 嗚呼、また始まってしまったと二人の口論を聞きながら、そっと窓の外を覗く。夕陽が落ち空は青紫の綺麗なグラデーションへと変わっていた。雲の隙間から顔を出した月を見て、もう直ぐで満月か、と独り言ちた。








 ヨナの誕生日まで、あと一週間となった。祝いの席に参加する予定で緋龍城にやってきたスウォン一行を城門で出迎えたにお久しぶりですね、と彼は微笑んだ。も同じようにスウォンの挨拶に微笑むと、城内へ入り彼の宿泊する部屋まで案内する。

「こちらが本日お泊りになって頂くお部屋です。滞在中は、私がスウォン様の護衛兼世話役となりますので何かございましたら申しつけ下さい」
「分かりました、ありがとうございます。……えーっと、
「はい、なんでしょうか?」
「今は私と二人きりなのですから、敬語は無しにしませんか?」
「それは……、えっと」

 昔のように普通にして欲しいです、そう言われては苦笑する。確かにヨナも最近同じような事を言っていた。しかし、立場上どうしてもヨナとスウォンは主君となる相手なのだ。二人が良くても、周囲がそれを許すはずがない。
 困った表情でスウォンを見上げるに、彼もまた同く「やはり嫌ですか」と困ったように笑った。

「嫌では、ないです。ただ……、スウォン様が他の者に嫌なことを言われてしまうのではないかと、考えるだけで恐ろしいのです」
「私は大丈夫です。逆に周囲の者がに何か言うようでしたら、私がを守りますよ」
「えーっと、それは私に言うべき言葉ではないような」
「え?」

 あ、駄目だこの鈍感男。そう頭の中でツッコミを入れると、イル陛下へお通ししますねと話題を変えて彼を陛下のもとへご案内することにした。人間の姿になっても嗅覚と聴覚だけは狼の時と同じなので、陛下の所まで案内するの容易いことだった。途中、ヨナが特別な時に付ける香の匂いがして、彼女もまた近くに居るのだろうと察することが出来た。
 そして廊下をパタパタと走る音が近付いて、見事にヨナが曲がり角から姿を現しスウォンへと顔から突っ込んでしまう。相変わらず元気なお人だと目元を緩めていると、スウォンはヨナと軽く挨拶と言葉を交わした後に陛下に挨拶してきますと走って行ってしまった。

 その場に取り残されたヨナは、今日の為にお洒落をしたのにと落ち込んだ顔を見せるが、そこにハクが現れ「無駄遣いですね」と間髪入れずツッコミを入れ、またヨナと言い合いになる。そんな二人を見ては、またかと溜息を吐くのだった。



 次の日の早朝、ハクとスウォンに誘われて訓練場へ来ていた。弓の勝負をすることになった三人は、順番を決めると各々の弓を持ち騎乗する。そろそろ始めようとした時、ふとヨナの香りを感じ取ったは、其方へ視線を向けた。
 スウォンを探して此処にやって来たのだろう、彼女の視線はスウォンをジッと見詰めていた。そんなヨナからの熱い視線も露知らず、一番手のスウォンの表情は真剣な顔つきとなる。

 スタートしてスウォンの放った矢は的の中心から少し外れた場所に刺さる。次にハクは的のど真ん中に命中させる。そして三番手のも的の真ん中に命中した。

 ところが、の的に近付きハクは直ぐに気付くことになる。

「なっ……おい!なんでお前だけ三本も矢が刺さってんだよ!」
「え?だって一本だけなんて約束になかったし」
「確かにそうだが、そうなんだがー……あぁ、もう!分かったよお前の勝ちでいいわ」
「わぁ、凄いですね。いつの間にこんな技を覚えたんですか」
「半年前から少しずつ。夜中にこっそりやってました」

 その言葉を聞いて、ハクは目をパチパチと瞬かせた。警護中に柱に凭れ掛かりながら寝ているの姿は―――まあ、昔からあったが、それでも指の傷が増えたり、それを誤魔化すように隠す仕草も気になっていた。敢えてそれについて何も突っ込むことはしなかったハクだが、気にならないはずもなく。
 漸く解明された疑問に、スッキリした気持ちと、それを隠そうとしたに対してモヤモヤとした感情が生まれた。

「弓に関しての右に出る者は居ないと思っていましたが、ここまでされると勝ち目なんてありませんね」
「いえ、そんなことは……」

 謙遜しながらも褒められたことが嬉しいは、胸の奥がぽかぽかと温かな気持ちになる。

「ちょっと三人共ー!私も混ぜてー!」
「主様!あまり身を乗り出したら落ちますよ!」
「だいじょーぶー!」

 大丈夫だと言うヨナに、彼女の身体能力がどれほどのものか理解している三人は、あのまま放っておいたら何かやらかすのではないかと思い、はスウォンに提案を持ち掛けた。

「すみません、スウォン様。主様を一緒に馬に乗せてあげられませんか?」
「ええ、構いませんよ。の頼みとあれば」
「ほんっと、スウォン様はお人がよろしいですねー。別に断ってもいいんですよ」
「ここはスウォン様のお言葉に甘えさせてもらう事にしよ。ほら、このままじゃ主様が手摺りから身を乗り出して落ちるかも」

 スウォンが気を利かせてヨナを馬に乗せてあげようと声を掛けてくれた。とりあえずこれでヨナも弓がやりたいとか、そういった事は言い出さないだろうとは小さく息を吐いた。
 ヨナを馬に乗せた後は、その様子を視線で追いつつハクとは適当に話しながら一休憩を入れることにした。

「……ハァ、何で俺も誘わねぇんだよ」
「え?弓のこと?」

 片手で顔を覆いながら落胆する姿を見せるハクに、はきょとんとした表情になる。

「そーだよ。何一人で楽しそうなことやってんだっつの」
「うん、楽しかったよ。また新しい技を考えてるから、思い付いた時には声掛けるようにするよ」
「おー、それは楽しみだな」

 こういった話題はハクも嬉しそうにするので、も同じように取り繕う事のない笑みが口元に浮かぶ。すると突然、思い出したようにが、あ、と声を上げるとハクに、行きつけの下町の医者のところへ薬を貰いに行く旨を伝える。

 白狼一族と唯一繋がりのある医者、つまり白狼一族のことを詳しく知る者だ。一時的なものだが、満月の夜は特に白狼一族にとって危険な日とされ、変化する瞬間を見られてしまえば、一族の事を知らぬ他者からするとただの物の怪同然の扱いをされ殺されかねないのだ。

「その…、お前の持病ってやっぱり治せねえのか?」

 が白狼一族の血を引いていることを知らないハクは、ただ持病があり薬で抑えている、とだけ聞かされていた。

「多分、無理だと思う。今すぐ死ぬわけじゃないから、きっと大丈夫」
「なんで、そんなこと分かんだよ」
「……だって、自分の体のことは、自分が一番良く知ってるって言うじゃない」

 確かにそうだが。そう呟いてハクはこれ以上言葉を続けることはしなかった。の困った様な笑顔が、これ以上踏み入ることは許さないと牽制しているように見えたからだ。幼い頃から兄妹のように緋龍城で共に過ごしてきた相手だからこそ、言わずとも態度や表情で察してしまう。



「私にだって縁談ぐらいあるわ……ハクとか!!」



 ―――瞬間、空気が固まった気がした。

 何がどうなってそのような会話になったのか分からないが、考えるとするならヨナの意地から始まった会話であることは理解出来るとハクだった。