(※後編)



 代わり映えしない日常を過ごす事が当たり前だと思っていた。それでも踏んだり蹴ったりな人生だった自分は、その星の元に産まれた、そう誰かに話したことがある。
 ―――あの子と出会うまでは。

 部下からお疲れ様ですと書類の確認を頼まれ、とりあえずそこに置いててと指示した。勿論、本人も早く次の仕事に取り掛かりたかったのだろう、有難うございますと言ってデスクに戻って行った。
 今日は企画担当の子に連れられてちゃんも第七商事へ出ていた。同じ部署の男共はちゃんが居ないという理由で、普段からキビキビ動いてるはずの奴らもだらっとしていた。勿論、俺もその中の一人らしい。

「門倉部長、今日はお茶でもいいですか?」
「あれ、もうインスタントのストック無くなったんだっけ」
「いつもさんが買い足してくれてたので、すみません」
「別にお茶でもいいよ。ありがとね」

 新人の女の子が申し訳なさそうにしていたので、俺はぶっちゃけ何でも良かったし、気にしてないからと湯呑を受け取った。

 しかし、ちゃんが居ないだけでこんなにも静かなのかと、黙々と仕事をする者や小休憩を何度も取りに喫煙所に向かう者を眺める。この一年で結構変わるもんだなぁと彼女が人事異動でやって来た日の事を思い出した。







 直ぐに彼女の見た目や気配りの出来る愛想の良さに、忽ち社内はちゃんの事で噂が持ち切りだった。まあ直属の上司だった俺は、最初こそ娘のように見てたし密かに癒されてた。彼女も誰かを特別扱いするわけでもなく、同じように接する。

「門倉部長、此処なんですが」
「ん?どれどれ」

 ちゃんのデスク裏を通った時に呼び止められ、仕事の質問をされた。身を屈めてノートPCの液晶を眺めていると、横からふわっと良い香りがして説明しながらチラッと横に居る彼女を盗み見た。勿論、彼女は俺の説明を真剣に聞きながら視線は液晶に向いている。

「―――ってことなんだけど、分かった?」
「はい、有難うございます!」
「いえいえ」
「あの、門倉部長」
「なに?他にも分からない事がある?」
「仕事の話しじゃないんですけど…、明日から私がお茶出しをしてもいいですか?」
「お茶出しって…こう、お疲れって配るやつ?」
「そうです!駄目ですか?」
「そりゃ別に構わないけど、基本的に水分補給は各自やってるから、無理しなくてもいいんだよ?」

 どうしてもやりたいと言う彼女の意志は固く、お茶出しに何か思い入れとか理由があるのか、俺は彼女が進んでやりたいと言うのであれば断る理由は無かった。分かったと返事をした途端、先程まで不安そうにしていた表情が一変して明るいものになった。
 それから、決まった時間になればお茶出しをして、回る順番がそうなのか知らないけど必ずと言っていい程、俺が一番最後に配膳される。

 今思えば、それは彼女が意図的にそうしていたのかなって、俺は都合のいい事を考える。

 喫煙所で部下の吉良牛と一緒になった時は、ちゃんが隣の部署の野郎に告白されてたとか、なんか知らんが俺にちゃん情報を流してくることがあった。青春だねぇと笑っていると、俺はお前が心配だと年下で部下の吉良牛に慰められたのだった。





 昔の事を思い出してふっと笑えば、いつの間に俺のデスクに来ていたのか、吉良牛が一人でニヤけて気持ち悪いぞと淡々とした口調で言って書類を机に置いた。

「昔の事思い出してた」
「昔?妻子に逃げられたことか?」
「そんなこと思い出してニヤついてるとか変でしょ」

 まあ、昔って言い方は何十年って感じがするよな。

 書類にサインをして吉良牛に渡すと、今日は居ないんだなと言う。企画担当と一緒に第七商事に行ったことを教えてやれば、へえ、と然も興味無さそうな返事をされる。お前が聞いてきたのになぁ、と苦笑していると、動物園はどうだったんだと聞かれて飲んでいたお茶を噴き出してしまった。

「げほっ…、おま、ちょっとこっち来い!」
「なんだよ」

 吉良牛を連れて喫煙所まで行くと、一呼吸置いた後に何で知ってんの?と先程の話題を口にした。が言ってたぞ、と口にするので俺は背筋がぞわっと凍った。

「え?なに、どういうこと?えっ、」
「落ち着け。俺にしか話してないようだから安心しろ」
「な、なんだ…そっか」

 一先ず知っているのは口の堅そうな吉良牛だけで良かった。胸ポケットから煙草を取り出すと、一本取って火をつけた。煙を燻らせながら、俺どうしたらいいんだろうな、と独り言ちるように呟く。壁を背凭れに、遠い目になる俺はチラッと吉良牛を見た。

「俺に言ってもどうにもならんぞ。決めるのは門倉だ」
「うん、そうなんだけどね。あと、吉良牛って俺の事上司だって思ってないでしょ?」
「何言ってるんだ?お前は俺の上司だろう」

(上司に向かってお前って言う奴がいるかよ)

 嫌味のある言い方をされた訳じゃないから、別に変な感じはしないけど、まさかそれは俺だけってことは無いよね?

は門倉のこと本気みたいだぞ」
「ハハ、らしいね。いやぁ困った困った…こんな歳になってモテ期が来ても、どうしていいもんか」
「別にお前は今独り身だろ。結婚は後で考えればいいし、恋愛だって個人の自由だ。門倉はが好きなんだろ?」
「おめぇ、男前すぎるだろ…。つかなんで俺の気持ち知ってんのよ」

 吉良牛みたいな考え方が出来りゃ俺も苦労しないさ。
 確かに彼女の為に真剣に考えてあげなきゃいけない。逃げてばかりじゃ駄目だろうな。

「第七商事の鯉登って奴がを狙ってるそうだぞ」
「えっ!?」
「さっさとしないと食われちまうかもしれねーなぁ」

 フッと笑って喫煙所を出て行く吉良牛に、早く漢になれよって背中を押された気がした。


 午後、俺のスマホに一通のラインが入る。仕事の話しか何かだと思い画面を見ると、そこにはちゃんの名前があった。変な期待はしないようにメッセージを見てみると、今から帰ります!と帰社の連絡だった。わざわざ報告しなくても大丈夫なのになぁと苦笑しながら、お疲れ様とだけメッセージをしておいた。

 直ぐに返事がありスマホ画面を見ると、メッセージではなく着信だった。しかもちゃんから。えっ、と慌ててスマホを持って廊下に出ると通話を繋いだ。

「も、もしもし?」
『門倉部長!お疲れ様です、今大丈夫ですか?』
「うん、いいよ」
『さっき素敵な喫茶店を見付けたので、今日の夜…どうですか?』
「……えーっと、わざわざその為に連絡くれたの?つか俺でいいの?」
『確かにそれもあるんですけど、門倉部長の声を聞きたくなっちゃって…すみません』
「そ、そっか…、わかった。じゃあ夜は喫茶店で食べよう」
『…ハイ!楽しみにしてますねっ!』

 それじゃ、と通話を切った後はその場にしゃがみ込むと頭を抱えた。

 俺の声が聞きたくなったとか、なんて可愛い事言ってくれるんだ……ッ!生きてて俺の人生って碌な事が無いなって思ってたが、これはもう許されてるのか?悶々とする気持ちを押さえながら、少しずつ前向きに考えれるようになってきた自分に喝を入れた。

 帰社したちゃんと企画担当の子にお疲れ様と挨拶をすると、手応えが良かったのか上機嫌だった。部署に居た連中も、彼女たちの無事な帰還に喜び作業スピードが朝の3倍ぐらい早くなっていた。
 定時になれば次々と帰宅していく部下を眺めながら、俺もそろそろ帰ろうとPCの電源を落とした。

 タイミングよくちゃんが俺のデスクにやって来たので、何かあった?と不思議そうに見上げると、今日は楽しみですねと嬉々として言った。あ、と思った時には遅く、彼女の発言がどうやら部署内に残っていた連中に聞こえた様で、此方を驚愕の顔をして見てきた。
 そりゃそうなるよな。コイツ等絶対に俺から誘ったとか思ってそうだわ。

「えっ、さん門倉部長とお出掛けするの?」
「喫茶店に行きたいと私が誘ったんです」
「へえ、そうなんだ。俺も一緒したら駄目かな?」

 だよな、そうなるよな。お前らちゃんのこと好きって毎日顔に書いて出社してるようなやつだもんな。

 すると、企画担当の子が「ほらアンタら邪魔しないの」と耳を摘まんで男連中を連れて行く。この部署でも結構気の強い姉後肌の女性社員として有名な子で、ちゃんを誰よりも可愛がってる良き先輩社員だ。

「門倉部長!今日、岡田君たちに残業してもらいますけど、いいですか?」
「エッ、あ、うん。いいけど程々にね」
「あざーっす」

 男前な性格なのか、俺たちを気遣ってくれたように見えた。するとちゃんが、先輩には私の気持ちがバレちゃってました、とコッソリ教えてくれた。嗚呼、なるほどね。だから空気読んで追っ払ってくれたのか。

 急いで帰り支度をしてちゃんと会社を出ると、車に乗って彼女が見つけたという喫茶店まで向かった。道中は勿論、ちゃんナビが大活躍する。今日の第七商事の話しも聞かせてくれたし、その中に鯉登の名前が出たのも確かだった。吉良牛の謎の情報網は一体どうなってんだ、と感心する。

 店の近くのパーキングに駐車すると、スマホ、車の鍵、財布を持って降りる。店内は初めて彼女と行った喫茶店と似てて、BGMも落ち着くボサノバだ。彼女のチョイスは本当に毎回驚かされるぐらい、俺の好きな雰囲気の店で助かる。

 今回は彼女の選んだ席に座り、メニューを眺めていると店員がお冷とおしぼりを持ってきてくれた。

「さっきお店の前におすすめメニューが書かれたボードがあって―――」

 ちゃんは声を弾ませて、とても楽しそうだった。店の外にあったボードなんて俺見てないから分かんなかったけど、彼女がメニューを見て指を差しながらこれですと教えてくれたので、自然と口元に笑みが浮かんだ。
 言う通りにメニューを頼めば間違いはないだろうと、店員を呼んで注文する。彼女も同じものを頼んでいた。

「今日、先輩のプレゼンが本当に凄くて感動しちゃいました。聞いてるこっちも引き込まれるっていうか……、私も早く先輩みたいになりたいなぁ」
「そんな急がなくても、ちゃんのペースで頑張ったらいいじゃない。あんまり早くに一人立ちされちゃうと、皆寂しいだろうし」
「それは、門倉部長もですか?」
「えっ?あー、うん。そうだね、そうかも」

 苦笑する俺を見て、彼女は何か考えているのか少し視線を俯かせると、胸元に手を当ててぎゅっとしていた。


 食事を終えて、パーキングの車まで歩く道中でちゃんは何故か足を止めて、門倉部長と俺を呼んだ。なに?と振り返って、彼女の顔を確認したけど、暗がりのせいで良く見えない。
 中々、次の言葉を待てども会話が始まることは無い。不思議に思って彼女の名前を呼んでみると、まだ帰りたくないと彼女は呟いた。一瞬、驚きの余りに目を見開いてしまったが、ハッとして帰りたくない理由を聞こうとして、でもそれはやめた。

 もう、彼女の気持ちを知っている以上、理由を聞くことが無粋なことだと思ったからだ。

「少しドライブでもする?」
「…はいっ!」

 とりあえず海でも、と俺は近場の海岸まで車を走らせた。車内でずっと窓の外を眺めていた彼女は、何も言わず黙ったままだ。
 海に着いて、降りる?と聞くと彼女は小さく頷く。俺も煙草吸いたかったし、彼女の返事を見て煙草とスマホだけ手に持って車から降りた。

「うわっ、やっぱりまだ海は寒いなぁ。ちゃんは大丈夫?」
「はい、大丈夫です」

 大丈夫と言いながら両腕を擦る仕草は我慢している証拠だ。黙ってスーツジャケットを彼女の肩に掛けてやると、最初は戸惑った顔を見せながらも、有難うございますと微笑んだ。
 立ち話もなんだからと浜辺に転がっていた大きな流木に腰を下ろした。煙草に火を付けて煙を彼女とは反対側に吐き出す。俺もいい加減、彼女に気持ちを伝えた方がいいんだろうなあ、と大きく息を吸って肺に煙を入れて、そしてまた吐き出した。

ちゃんさ、本当に俺が好きなの?一時的な気の迷いじゃない?」
「好きですよ。私がいつから門倉部長のこと好きか教えましょうか?」
「えっ、」
「人事異動があって、門倉部長と初めて話した時からです」
「…へえ」

 それって一年前からってこと?うわー、全然気付かなかった。

「門倉部長って、普段は口がへの字なんですけど、笑った時がとても印象的だったんです。可愛いなあって…それから夢中になって門倉部長を追い掛けてました」
「可愛いって…、俺おじさんだよ」
「お茶出しをしたいって言った時も、少しでも門倉部長と話せる時間が欲しくって……結局、自分の為だったんです」
「それは、まあ……最近になって気付いたよ。好きだって言われるまでは気付かなかったけどね。いやぁ、その行動力すごいね」

 あと、ミスした時に門倉部長が庇ってくれたりフォローしてくれたり、私の淹れたコーヒーを美味しいって言って飲んでくれたり、他にもありますよ。と彼女は思い出話をするように俺に、自分の気持ちを聞かせてくれた。
 俺、本当何やってんだろうな……、真剣に向き合おうとしてる子に、俺は背を向け続けてた。確かに年齢差はどうにもならないし、一生埋められない。でもさ、でも、

「好きって気持ちが、埋めてくれんのかな」
「…門倉部長?」
「いや、さ。俺らの年齢差ってどう頑張って埋められないじゃん。でも前向きに考えてみれば、ちゃんが俺に好きって言ってくれるように、その気持ちで俺らの埋まらない部分も埋められるんじゃないかって……、アハハ、やっぱ違うか」
「私に埋めさせてください。門倉部長が不安にならないぐらい、私がいっぱい埋めますから!」
「ちょ、ちょっと待って!それは俺の役目だから!」
「へ?」

 思ってた以上にちゃんは俺よりも覚悟が出来ていて、なんだか俺自身情けなくなった。頑張れ俺。

「えーっと、コホンッ。俺もちゃんの事を一人の女性として好きだよ。きっとこれから色んな問題が出てきて君を悩ませたり、俺自身も悩んだりすると思う。それでも、俺はちゃんを手放す気は一切ないけど、いい?」
「…なんですか、それ。当たり前じゃないですか」

 フッと涙を浮かべた目で微笑むと、彼女は俺の胸にぎゅっと縋りつくように体を寄せた。

「門倉部長、ずっと私から離れないで下さいね」
「アハハ、それはこっちの台詞だよ。俺のこと見捨てないでね」

 漢、門倉。覚悟を決めた日。