(※中編)



 いつもの休日なら俺は今も家で寝こけてる。いつもの起床時間に合わせて鳴る目覚まし時計を、鬱陶しそうに布団から手を伸ばして止めているはずだった。
 でも、今日は違った。昨夜は緊張と不安で中々寝付けなかったはずなのに、目覚まし時計よりも先に目を覚まし、今日の予定を思い出してはドキドキと緊張と不安が入り混じって、布団に潜って現実逃避をしたかった。

 まだ寝惚けたままの目を擦った後に、鼻をズズッと啜った。カーテンから漏れる朝日がおじさんには眩し過ぎて、きゅっと目を瞑ってしまった。いかんいかんと掛け声と共に立ち上がると、未だフラフラする足取りで洗面所に向かう。鏡で自分の顔を見て、やっぱり俺っておじさんだな、と思うのは当然で。バシャバシャと顔を洗った後は、たまにはこの無精髭も剃っておくかと既に遅い若作りをしてみる。

 春だというのに少し寒い気がするので、薄手の長袖とジーンズに着替えて適当に食パン食べながら淹れたコーヒーを飲む。アチチッ、また口の中を火傷するところだった。朝のニュースを眺めながら歯磨きをしていると、今日は午後から降水確率80%とお天気キャスターが言う。移動は車だから良いとして、傘は二本ぐらい車に乗せておこうと頭で考える。果たして俺は忘れずに車に傘を乗せるのか。

 ―――運転しながら思い出すのは朝の事だった。傘乗せるって俺言ったよなあ、と赤信号で停車したときに後部座席を振り返って覗く。うん、やっぱり忘れてるわ。コンビニにも売ってるだろうと途中寄って二本購入した。

「門倉部長!こっちです!」

 待ち合わせ場所に着いて路肩駐車し車を降りると、既に待っていたちゃんが手を振ってやってきた。待たせちゃったかなと申し訳なく笑うと、彼女は今来たところですよと笑顔で返してくれた。本当、良い子だよね。

 車に乗って出発すると、ちゃんは楽しみですね、と満面の笑みを向ける。楽しみ、か。俺にはもうこんな事有り得ないと思っていた。出掛けることがあったとしても、それは一人で行くことが多いし、仕事帰りで済ませれる買い物ならさっさとそうしてしまう。けれど今日は違う、捨てられた子犬がウルウルした目で見てくる、そんなの表情に負けた俺が、ちゃんとデートだ。

「実は、今日サンドイッチ作って来たんです。軽食なので足りなかったら園内のレストランで食べましょうね」
「ありがとう、ちゃんの手料理が食べれるなんて、楽しみだなぁ」

 お世辞で言ったつもりではないが、彼女が嬉しそうに言うので少しでもこの空気を壊さないように出た言葉だった。それを彼女はほんのりと頬を染めて、嬉しそうな視線を向ける。変な期待をさせちゃ駄目だと分かっているが、自分に好意を寄せる女性が若い女の子というだけで、どう対応していいのか分からなくなるのだ。
 自身の人生でこんなことがあると誰も予想出来ないし、俺だって予想すらしてなかった。

 普段おとなし目の化粧をしているちゃんは、いつもと違って見えた。まだ俺は寝惚けてんのかと思っていたが、チラチラ見過ぎていたのか俺の視線に気付いた彼女が、ちょっと気合入れちゃいましたと苦笑した。気合って……、ウン、可愛い。

 神様すみません、こんな俺にも今日一日だけ夢を見させてください。



 動物園に着いてからのちゃんは、少女の様に大きな瞳をキラキラとさせると、然も当然のように俺の左手を握ってきた。思わずギョッとして彼女を見下ろせば、駄目ですか?と恥ずかしそうにいつもの上目遣いで言って来るので、やっぱり俺は反論することも出来ずただ頷く。もう俺の扱い方を知り尽くしているのか、彼女は有難うございますと微笑んだ。こりゃヤバイな…、滑々な手の平が気持ちいい。

 世間は俺たちを傍から見れば親子だろう。俺だってそう思うよ。

 入場口から左回りに観ていくことにした俺たちは、ねえ可愛い、と最初の鳥コーナーを指差したちゃんを見て、それ君だからと心の中で言った。園内に入って直ぐに気付いたけど、ちゃんの可愛さは常識とでもいう様に異性の視線を集めていた。お前その隣に連れてるの彼女なんだろこっち見んなと視線で悪態を吐きながら、まだ俺の彼女でもないちゃんの存在に優越感を感じた。

 時刻は昼時になり、途中見付けた広場のベンチに腰掛けると、ちゃんは良かった食べて下さいと言ってお弁当箱を広げてサンドイッチを見せた。じゃあ飲み物は俺が買ってくると言って、自販機でお茶を二本買うと片方を彼女に手渡す。

「もう少し歩けばウサギと触れ合えるコーナーがあるみたいですね」
「じゃあ、そこも行こうか」

 いただきます、と彼女の作ったサンドイッチを頬張る。仕事も出来て料理も出来て、おまけに可愛い。こんな完璧な彼女の未来の旦那がなんと羨ましいことか。

「その、サンドイッチ…お口に合いますか?」
「あ、うん。美味しいよ。料理も上手なんだね、ははは」
「実は料理苦手なんです。でも、門倉部長に美味しいものを食べて貰いたくて、頑張りました」
「へえ…そうなんだ。そっか、ウン」

 (やばいやばい。なんだこの可愛い生き物は…!!)

「あ、口の端にマヨネーズついてますよ」
「は、」

 自分で拭うよりも先に彼女の手が伸びて、そっと口の端についたマヨネーズを指先で拭うと、その指を彼女自身の口元に運ぶと舌先でペロッと舐めた。全てがスローモーションのように俺の目に映り込むと、唖然とする俺に、門倉部長も可愛いところあるんですねと言って笑い掛けた。駄目だ、俺生きてていいのか不安になってきた。

「ねえ、ちゃんってさ…そういうの普通にやっちゃうタイプ?」
「え?何がですか?」
「あー…いや、なんでもない」
「そうですか?」

 うん、ごめん。俺がおかしかったのかもしれない。
 あれは彼女にとっての普通だって思えばいい。俺の隣でもぐもぐと小さく可愛い口を動かしてサンドイッチを食べる彼女は、別段変わった様子もなく舌鼓を打っている。 

 食事を終えて小休憩をした後は、彼女が行きたがっていたウサギのコーナーへ向かった。途中、家族連れのおばあちゃんに可愛らしい娘さんねぇと言われて、あははとぎこちなく愛想笑いをするしか出来なかった。それを隣で見ていたちゃんは、やっぱり私って子供っぽいんですかねぇとシュンっとした表情で言った。そんなこと無いよと慌てて励ましてみるけど、彼女は依然として悲しそうな笑顔を見せるだけだった。

 そんな空気を引き摺ったまま、屋内にあるウサギコーナーに来てみれば可愛らしいウサギのお出迎えに、暗い表情だったちゃんも徐々に笑顔を取り戻していった。俺は外で見てるからウサギと触れ合ってきなよと勧めたが、可読部長もですよと手を引かれて一緒に柵の中に入ることになってしまった。
 ウサギの触り方や抱き方を飼育員のお姉さんから教えてもらい、早速実践する彼女を同じように人工芝の上に座って隣で眺めていると、ほら門倉部長も、と抱えていたウサギを差し出された。エッエッと明らかに動揺する俺を見て、大丈夫ですからと彼女の聖母のような笑みに負けて、俺は飼育員の説明を思い出しながらウサギを腕の中に抱いた。

「ふふ、門倉部長の腕の中が気持ちいいみたいですね」
「そ、そうかな」

 大人しいウサギをチョイスしてくれたちゃんが凄いんじゃないかと思いつつ、俺はこの抱きかかえているウサギをどうしたもんかと眺める。動物セラピーを経験したことが無かったが、きっとこういうことなんだろうな。ふわふわの毛が手の平に触れるたび気持ちがいい。
 すると、ちゃんは俺の抱えたウサギの鼻先を指でチョンと触ると、あなたが羨ましいと苦笑していた。もしかしてウサギになりたかったとか?何ともメルヘンな思考を持つ彼女の新しい一面を垣間見たと思った。

「一枚、写真撮ってもいいですか?」
「あっ、うん。じゃあウサギが良く見えるように、」

――――カシャッ

 ウサギが見えやすいように抱き直そうと思った矢先、いきなりシャッターを切られて俺は思わずウサギから手を離してしまった。落とされたウサギは上手いこと体を反転させると俺の太腿の上を蹴って逃げて行った。

「あっ、えっと?ウサギを撮りたかったんだよね?」
「そうですね。でもちゃんと撮れてますから」

 チラッと彼女の携帯を見ようとしたら、サッと携帯を隠されてしまった。覗き見なんてエッチですねと悪戯っ子のような笑みを向けるちゃんに、ゴメンゴメンと後頭部を掻きながら苦笑した。一瞬だが確かに見えてしまった彼女のスマホ画面には、ウサギを抱く俺の姿があった。思い出して恥ずかしくなって、片手で口元を押さえながら必死にニヤけそうになる口をきゅっと閉じる。

「わあ、子ウサギだ。まだ小さくて可愛い」

 次にやって来たのはまだ赤ん坊のウサギだった。それを正座している彼女の太腿の上をちょろちょろ動き回っている。うん、可愛い可愛い。無意識にポケットからスマホを取り出していた俺は、彼女の許可なしにカメラモードでシャッターを押してしまった。あっ、と自分でも声を漏らしちゃんを見ると、彼女もまた同じように此方を驚いた表情で見ていた。

ちゃんがウサギと一緒に居るのが可愛くて、つい。嫌だったよねごめんね。直ぐ消すから」

 いそいそと先程の写真を削除しようと画面をフリックする俺の手を、伸ばされた彼女の手に止められた。重ねられた手に驚いてスマホを芝の上に落としてしまい、それを慌てて拾おうとするより先にちゃんが拾った。

「アハハ、ありがとね。いやぁ、この歳になると手の油無くなっちゃって、良く物を落としちゃうんだよねえ」
「門倉部長、さっき私の事可愛いって……言ってくれたんですよね?」
「えっ、」
「写真、消さないで下さい。我儘なのは分かってます、でも……少しでも私を意識してくれてるのなら、そのままにしておいてくれませんか?」
「………っ」

 上手く返事が出来ない、言葉が詰まる、発作を起こしたみたいに息が苦しい。

「少しだけ、私の話しを聞いて貰えませんか?」
「…うん」

 俺が頷くと、それじゃあ、と彼女は足に擦り寄っていたウサギを撫でながら話し始めた。

「昨日、門倉部長とデートなんだって思ったら、嬉しくて遠足前の小学生みたいに夜中々寝付けなかったんです」
「うん(俺もだよ)」
「少しでも門倉部長の隣にいて恥ずかしくないように、洋服選びも頑張りました」
「うん(何度か私服見た事あったけど、確かに違って見えた)」
「苦手だった料理も、大好きな門倉部長の為に頑張れました」
「うん(サンドイッチ凄く美味しかったよ)」
「門倉部長、歳の差があることはこれからも変わらない事実です。それでも私は門倉部長が好きです。私の事を少しでも鬱陶しいと思うのであれば、こっ酷く振ってくれませんか?じゃないと、きっと諦められない……、ね?」

 彼女の言う通りだった。歳の差はこれからも縮まることは無い。けれど彼女は自身の気持ちにちゃんと向き合って、その気持ちを俺にぶつけてくれている。それを若さだとか言って逃げる為の口実を作っていたのは俺自身だった。逃げる癖は昔からだった。無駄な争いは避けたいと誰もが思うし、俺もその中の一人に過ぎない。

「……やっぱり、世間はそれを許さないと思う。君の親御さんも、きっと。もし俺の娘がちゃんぐらいの年齢になって俺みたいなおっさん連れてきたら、驚いちゃうもん。だからさ、答えを急ぐ前に、俺たちは友達から始めようよ」
「友達、ですか?」
「ウン、友達。君が望むならデートだってする。だけど、いつか君が今の夢から醒めた時、隣に居るのがただのおっさんの俺だったら、げんなりするはずだよ。そうならないように、まずは―――」
「…私の事、馬鹿にしないでくださいッ!!」
「エッ!?」

 目にいっぱいの涙を溜めた彼女が勢い良く立ち上がると、柵の外へ逃げるように駆け出して行ってしまった。驚いたまま制止していた俺も、マズったなぁと立ち上がり彼女の逃げた方へ駆け出した。
 意外と足の速いちゃんを見付けるのも至難の業で、朝のニュースの天気予報も外れることなく外は雨が降っていた。流石に年齢的に走り続けるのは中々キツかった。一度足を止めると、膝に手を付いてハァハァと全身で息をする。

 いや、ほんと、足速過ぎない?全然見付かんないんだけど!

 最初はちゃんと声を大に呼び掛けてみたけど、やっぱり彼女は見つからなかった。動物園といっても場所は市街地を抜けた山の方にある。歩いて帰るってことは無いだろう。……いや、ちゃんのことだからあり得なくもない。
 強硬手段で俺は迷子センターに行くと、全身びしょ濡れのまま係員に声を掛けた。ヒッと人を化け物みたいに驚いた後、お子様のお名前は、と聞かれ一度口を噤んだが、再度口を開くと「俺の嫁です」と、何を考えてるのか俺自身が口走ってしまった言葉に動揺と一緒に混乱した。
 係員は分かりましたと言って、メモ用紙を俺に渡すと奥様のお名前をココに、と指を差した。

『ご来場のお客様へ、お連れ様のお呼び出しを申し上げます。様――――』

 園内放送で流れたちゃんの名前を聞いて、ものの数分でちゃんは現れた。彼女自身も雨に濡れて服がぐっしょりとして、そのまま俺に近付くと「もうっ、門倉部長…!」と恥ずかしそうに見上げてきた。
 係員の女性は俺らの様子を見ながらクスクス笑うと、可愛らしい奥様ですねと口にした。あ、と声を漏らす俺に、ちゃんは奥様…と呟いて恥ずかしそうに、でも嬉しそうな表情で口元を押さえていた。




「……さっきの係員の人、私の事を奥様って言ってくれました」
「うん、そうだね」

 ぐっしょりと濡れた服のまま車に乗れば風邪を引くので、お土産コーナーで可愛い動物がプリントされたTシャツと適当に羽織れる前開きパーカーを購入すると、俺たちはトイレでそれに着替えた。一応、彼女が選んでくれたものだが、こんな歳になってこんな可愛いプリントのTシャツを着るとか想像もしてなかった。ちゃんは可愛らしいウサギがプリントされたTシャツを着て登場し、おっいいじゃん、と素直に感想を口にした。

「門倉部長も似合ってますよ。虎さん可愛いですね」
「可愛いイラストだからいいけど、リアルな虎のプリントだったら、一歩間違えれば大阪のオバチャンだからね」
「あはは、確かにそうですね」

 ズボンの代わりになるものは流石に売ってなかったから、そのままで我慢することになった。車のシートが濡れては困るだろうからと、気を遣ってお土産のレジでちゃんがビニール袋を余分に貰っていた。

「門倉部長」
「ん?」
「また、一緒に遊びましょうね」
「うん、そうだね。ちゃんが行きたい所に連れて行くよ」
「次は門倉部長の家に行ってみたいです」
「……エッ!?」
「駄目ですか?」
「ごめん、それは流石に……(俺の我慢大会が始まっちゃうって)」
「別に襲ったりしないですよ?」
「あっ、うん…?」

 結局、喧嘩なんかしてたっけ?ってぐらい、普通になっていた俺らは動物園を後にした。