結婚してから子供が出来るまでは、あっという間だった。
今は二才になった息子がいて、今後はもう一人欲しいねと彼女が話していた。そんな幸せな日々が続けばいいと思いながらも、彼女は日に日に寝込むことが増えた。年齢的なものだと言い苦笑していたが、少しずつ痩せていく彼女が心配だった。
病院には何度か行ってるみたいだが、彼女は決して誰かと一緒に行くことはしなかった。
毎日、大丈夫だからと言って俺に笑い掛ける。
そんな彼女の強がりが、怖かった。
いつものように出社して、新しく出来た後輩の教育係を任された俺に、さんは「成長したね」と褒めてくれた。今後はもっと頑張って、少しでも生活を楽にしてあげたい。共働きだから子供は託児所に預けてるけど、本当なら彼女も子供との時間をもっと過ごしたいはずだろう。
後輩と一緒に食堂で昼食を摂っていると、門倉さんが血相を変えて俺を見付けると走ってきた。また何かやらかしたのかあのオッサンと思いながら、どうしたんスか、と唐揚げを口に運ぶ。門倉さんは息を整えると、落ち着いて聞けよと前置きをすると、俺を見て気まずそうに口を開いた。
「が倒れた」
俺は持っていた箸を落とした。
カラカラと音を立てて床に転がるそれが虚しく俺の耳に響く。
「……今、なんつった?」
「だからちゃんが、」
「今どこに居るんスか!?」
「先輩落ち着いてくださいッ」
やるせない感情と、何でそんなことになってんだと自分自身に怒りを覚えた俺は、門倉さんに当たり散らすように胸倉を掴んでしまい、後輩がそれを止めに入った。
「俺に当たっても仕方ねェだろ。お前はさっさと病院に行け、上には俺から言っとくから」
「……すんませんッシタ」
教えてもらった病院へ急いで向かった。
倒れた時に咄嗟にとった受け身で大した怪我は無かったらしい。
病室のベッドで眠るさんに寄り添うように、俺は椅子に座って見守っていると担当医が「良く眠ってるみたいですね」と俺を安心させるように微笑みかけてくれた。
「あの、先生……さんは、妻はどうしてこんな、」
「正直に申しますと、彼女は余命一ヵ月です」
「………っ」
「貴方の悲しむ顔が見たくないと、通院していた彼女は私に言っていたんです。心配を掛けたくないと」
「……なん、で。俺、そんなに頼りなかったんですかね…」
「そうじゃない。君が頑張り屋だから、自分の為にもっと頑張ってしまうかもしれないと笑っていました。三年前から私は何度も貴方にお伝えした方がいいと言っていたんですがね……でも、彼女は決して曲げなかった」
頼りない俺を、彼女は頑張り屋だと言ってくれていた。
俺はもっと彼女を信じるべきだった。
なんでそんなに強がるの、どうして俺に悩みを打ち明けてくれないの、俺だって、と。結局は彼女の為じゃない、自分自身の不安を消し去りたい口実に過ぎなかった。
担当医から聞く話は、彼女の本当の気持ちを語っているようだった。
「彼女の出産も奇跡に近かった。命と引き替えになるかもしれないと。でも、彼女は頑張って生きてくれました。人間というのは不思議ですね…。誰かを想う力が強ければ強い程、生きたいという生命力を感じる」
本当に、彼女に驚かされてばかりでした、と担当医は小さく笑った。
「そして、こうも言ってました。"私には、未来をくれた人がいたから"……と。きっと貴方だったんでしょうね」
すると、弱々しい声だが「先生のおしゃべり」と、不満そうな、でも悪戯っ子がするような笑いが聞こえた。
どこから俺たちの話しを聞いていたのか、彼女は俺を顔を見ると「ごめん」と一言呟いた。
それは何に対してごめんって言ってるのか、今の俺じゃ分からない。
「…あーぁ、佐一君にバレちゃった」
「俺、さんみたいに強くないし、頼りないかもしれないけどさ……幸せ感じてる」
「うん。私も幸せ。今も幸せ、これからもずっと、ずっと幸せだよ」
彼女はそう言ったあと、諦めないから、と微笑んだ。
毎日…とまではいかないが、出来る限りさんのお見舞いに行った。
息子を連れて行き、昨日は嫌いな人参が食べれるようになったことを報告すると、彼女はえらいぞーと息子の頭を撫でた。
「パパの言う事、いっぱい聞いて大きくなるんだよ」
「ねえ、ママはいつかえってくるの?」
子供というのは時に残酷だ。俺が「ちょっとトイレ連れてってくる」と息子を連れて病室を出ようとすると、それをさんが呼び止めてきた。聞かれて一番辛いのは彼女なのに、大丈夫だからと苦笑していた。看護師を呼ぶと、少しだけ息子を見ててくれませんかと彼女の方からお願いすると、快諾してくれて俺たちは二人きりになった。
彼女は少しだけ息を整えると「たまには二人で話したいなって思ったの」と微笑む。確かに病院に来るときは息子を連れてくることが多かったし、二人で話す時間は無かった。
「ねえ、私の腕……どう思う?」
「え?」
「鎖骨も、胸も…、足も……指、も」
言いながら彼女の手が震えていた。
「こんなに細くなって…っ、これじゃ佐一君に嫌われちゃいそう」
「俺は、一生さんが大好きだよ。綺麗だよ、ずっと、これから先も」
「…ありが、と」
ぽろぽろと涙を流し始めた彼女の震える手に、そっと俺の手を重ねた。血液の循環が悪いのか、指先まで冷たかった。
「でもね、もう駄目なの」
「何言って、」
彼女は最後の力を振り絞って、俺に優しいキスをしてくれた。
乾いた唇だった。でも温かい、キス。
彼女は自身の死期が分かっていた。
生命活動を終えた彼女の体は、雪みたいに真っ白だった。死に顔も解放されたみたいに嬉しそうで、それが酷く美しくて、やっぱりさんは綺麗だなって、そう思った。
最後まで、彼女は強かに生を全うした。
まだ母親の死を理解出来ない息子は「なんでママは、ねたままなの?」と問い掛ける。
「お空に行ったんだよ。綺麗なお星さまになったんだ」
前に読んだ七夕の本を思い出したのか、息子はママは織姫様だと嬉しそうに言った。
葬儀を終えて、漸く落ち着いた頃に荷物が届いた。小包に入っていて、差出人の名前が無い。不思議に思いながら箱を開けると、中には一通の手紙が入っていた。それを手に取り宛名が「杉元佐一様」となっていた。
裏を見ると、知ってる名前に俺は胸の奥がぐっと熱くなった。
―――より。
俺は封筒を丁寧に開けて一枚の便箋を手に取り静かに読んだ。
"佐一君へ
最初に言わせてください。病気の事をずっと黙っててごめんなさい。
私が倒れた時、とても驚いたと思います。
入院してから、佐一君の笑顔に、沢山の勇気と幸せを貰いました。
佐一君と過ごした日々は、とても愛おしく、大切なものでした。
強がりで意地っ張りな私を、ずっと見守り続けてくれてありがとう。
息子のことを頼みます。
より"
沢山書き込んであるわけじゃなかった。
でも、その中には彼女なりの想いが全部詰まっていた。
決して多くを語らない。そんな彼女が見せる、最初で最後の気持ちだった。
手紙を持つ手に暖かな雫が落ちる。
自分が泣いている事に気付き、ごしごしと手の甲で目を擦った。
パパ、どこかいたいの?と息子が俺を心配するように膝に手を乗せて顔を覗き込む。
「ママの事、大好きか?」
「うん!だーいすき!」
「……俺も、さんが好きだ」
きっと、これからも、俺は彼女を愛し続けるだろう。
息子の笑顔が、彼女の面影を残し、そして俺の心を癒す。
俺は、これから出逢う全てのものを君に重ねていく、
―――永遠に愛する、唯一の存在と。