付き合って一年経った頃、会社の先輩に「お前らいつ結婚すんの」と聞かれた。その場にさんが居なくて良かったと思いながら、俺とさんの関係を知ってるこの人は"門倉さん"だ。
妻子持ちのこの人は、たまに俺の相談も乗ってくれる、いい年したおっさん上司で、さんが入社した頃の教育係の人でもある。
給湯室でコーヒーを淹れる俺の隣で、門倉さんは隅にある小窓を空けて煙草を吸う。共有スペースとなってる給湯室での喫煙は駄目だと言われているのに、窓開けりゃいいんだよと平気で吸ったりしてる。この前、さんに怒られてるとこ見たけど、また怒られちまえ。
「お前ら、付き合って長いんだろ?」
「あー…まだ一年とちょっとッスね」
「ふーん。ま、若いんだし急ぐ必要は無いと思うけどさ」
「何が言いたいんスか」
「尾形がちゃん狙ってるみたいだよ」
……思わずコーヒーカップを落とすところだった。なんだその笑えない冗談は。門倉さんの顔は明らかに人を揶揄う時の顔だ。でも、この人が言うことって実は本当だったりするときもあるんだよなぁ。
煙草を吸い終わったのか、まあ精々頑張れよ青少年と手をヒラヒラさせて出て行った門倉さんに、俺は「またさんに怒られちまえ」なんて文句を口にした。
本当は、門倉さんに言われる前に結婚の事は考えていた。
彼女にその気があるならって思って、一応指輪も用意してる。
けど、今の俺を受け入れてくれるか分からない。
尾形さんが彼女を狙ってるって話しは、たぶん本当だ。
この前も、さんをランチに誘ったりと何かと目立つ行動をしてる。さんに至って、浮気なんてしないだろうけど、それでも俺の不安を払拭する何かが欲しかった。
だから、俺は彼女にプロポーズすることを決意した。
仕事が終わって、いつも通り家に帰れば先に帰宅していたさんに出迎えられる。既に夕飯の良い匂いがして、今日はカレーだよと笑顔で教えてくれた。今日も幸せを噛み締めていると、明日は佐一君の好きなハンバーグだよと彼女は笑う。やばい、可愛い。無性に抱きたくなる。いやいや俺は馬鹿か。これからプロポーズしなきゃいけねぇってのに、何考えてんだよ。
お風呂に入った後、二人でのんびりテレビを見ていた。ソファーに肩を並べて、バラエティー番組を見ながらさんはクスクス笑う。前から思ってたんだけど、さんって笑いのツボが浅いよなぁ。学生時代のときも、白石の訳の分からない行動に良く笑ってたし。
「ねえ、佐一君」
突然名前を呼ばれて俺の肩はビクッとする。さんをジロジロ見ていたのがバレたのかと思ったが、彼女はジッと前を見詰めたままだった。すると彼女は「今日、なんか変だね」と続けて言うと笑った。
「えっ…ハッ!?えっ!?」
「ほら、なんか変。何かあった?相談に乗ろうか?」
「いやっ、別に……何でもない、」
わけじゃない。大ありだ。しっかりしろ俺、プロポーズするなら今だろ。これ以上変な態度とってさんを不安がらせるんじゃねえ。
俺は彼女の肩を掴むと90度回転させて向き合わせるような体勢にする。なに?と不思議そうな顔で見上げる彼女に、俺は風呂上がりからずっとズボンのポケットに忍ばせていたアレをぎゅっと握ると、「あのさ、」と緊張で声を上擦らせながら、そっと彼女の前に差し出した。
「俺と、結婚してください」
きっと今の俺は耳まで顔が真っ赤だ。唯一、人生で本当に緊張する場面だった。
「……それ、本当?」
「嘘じゃない。俺、さんと結婚したいって思ってる」
「私でいいの?」
「さんじゃなきゃ駄目」
「……私、いっぱい我儘言っちゃうよ?」
「俺にとってさんの我儘なんて可愛いもんだよ」
結婚指輪を箱から取り出すと、彼女は何も言わず左手を差し出してくれた。
そっと彼女の薬指に嵌め込む時、俺の手は緊張で微かに震える。
「綺麗」
そう言って指輪を明かりに照らしながら、優しい笑みを零したあと、俺に振り向いて微笑んだ。
「夢の続きをくれたのは、あなただけだったよ」
この時の俺は、この言葉にどんな意味が込められているのか、知る由も無かった。