結局、殺されるどころか生かされてしまった。
その理由は分からず、現段階で理解出来るのは私が彼の人質にされていることだけだった。彼の部屋なのかも分からない古いアパートの一室らしき場所に監禁された私は、粗末な食べ物だけ与えられる。だけど、それに手を付けずにいる私に、食べなければ死ぬぞ、と彼は笑うのだ。どうせ殺されるのなら、食べても食べなくても一緒じゃないか。
それから三日目の夜を迎えた今日、吸っていた煙草を消した彼が此方を向いて口を開いた。
「さて……今日はお前にも働いてもらうぞ」
「働くって…なにを」
「楽しいゲームをする為にお前が働くんだよ」
彼の言うゲームとは何なのか。
未だに聞かされていない内容に私はただ訝し気な表情だけを向ける。
「変な真似をしたらお前の頭は……バーンってな」
そう言って片手を鉄砲に見立てて私を撃ち抜くポーズをする彼に"お前は常に俺に見られているからな"という意味だと理解した。
「じゃあ、私は今らかどうしたらいいんですか」
「簡単だ。あの公園で適当に目星を付けて、そいつの首を絞めて殺す」
「……犯罪の加担をしろってこと?」
「犯罪の加担かぁ…まあ、この時代じゃそうなるだろうな」
この時代って……あんたも現代人だろうがと言ってやりたい。
「お前の非力なその手で絞殺せるか分からんが、お前が勝つか負けるか楽しみだな」
「そんなの、」
無理に決まってる。だって私は誰かの首を絞めた事なんて無いし、どうやっても相手が強ければ逆に私が相手の正当防衛で死ぬかもしれないのに。今更ながらに、自分が死ぬことへの恐怖を覚え始めてしまった。昨日までの自分は一体何だったのか。あんなに死にたいと思っていたのに、いざ生死を目の前にした時、覚悟がない人間は結局命乞いをするのだ。
「さあ、行って来い。お前の初仕事だぜ」
「仕事って……」
それを仕事と呼んでいい筈がないと言うのに。
夜道を歩き、私は公園内でどの人にするか物色するように眺めていた。この人じゃない、あの人じゃない。そうすること一時間半……一人の女学生が目に付いた。見た所、私と同じ制服だったので、年の近い子ならいけるだろうと値踏みする。どう見てもスポーツをしているような体付きでもないし、線の細い体系だ。
渡されていた黒の皮手袋を両手に嵌め、黒のパーカーを羽織るとフードを目深に被って、一度深呼吸をして早まる心臓を落ち着かせると、その女子生徒に声を掛けた。
「こんばんは」
「……誰、ですか?」
彼女の怯えたその震える声に、私はごくりと生唾を飲み込んだ。いかにも害の無さそうな、これから幸せになっていくだろう彼女を、私は今から殺すことになる。本当にやってしまうの?今ならまだ間に合うはずだから警察に行こう。でもあの男はどこかで私を見ているのに?
心の葛藤を繰り返す内に、考えることも億劫になり私は無心で彼女の腕を掴んだ。ひゃっ、と女性特有の悲鳴のような声に「ごめんなさい」と謝りながらも、その腕を引っ張って茂みへと連れて行く。抵抗する力は、私より弱い。いけるかもしれないと思った私は、来る前に考えていた殺し方を実行する事にした。
小さな彼女の口を片手で塞ぐと、もう片方の手で動脈を圧し潰すように首を絞める。もがき苦しむ彼女の顔は苦悶の表情を浮かべ、綺麗な瞳が私にやめてと懇願する。心の中で何度も何度も謝った。
いずれ私は地獄に落ちるから、とそう呟いた。次第に抵抗する彼女の力も弱まり、動きが止まっていく。綺麗な瞳から苦しみから逃れたい一心で流れた涙が、首を絞める私の手に伝うと、彼女は半分白目を剥いて絶命した。
「殺さなければ……殺される、から……っ」
そう呟いて、自分はあたかも正当防衛をしたと主張することで、この現実から逃れたかった。
パチパチと小気味良い拍手が聞こえ、それが誰かも分かってしまう。きっと彼は今もあの厭らしい笑みを浮かべ、楽しそうに私を見下ろしているのだ。嗚呼、殺してしまった、そう言って私の横にしゃがんだ彼は死体を見ると「いい顔してんじゃねーか。なあ?」と私に賛同を求めるように話しかけた。頷くなんて出来るわけがない。
「おめでとう。お前の勝ちだ」
そう言うと、彼は私の頭を優しく撫でる。
何が面白くてこんなゲームをするのか。理解することも、理解したいとも思えない彼の思想に、私はあとどれだけの人間を殺めていけばいいのだろうと、ふと死体を見てそう思うのだった。
帰ってからは、また数日の監禁生活が始まる。お互いの事を話すことも無ければ、そもそもの会話が無い。目の前に置かれた一枚の食パンを見て、食べなければ本当に死んでしまうと腹の虫が訴えた。男の前で食事をしたくなかった私だが、現在部屋の中に一人。
食べるなら今だろうと、後ろ手に結ばれた両手を動かすも、拘束具は外れそうにない。
仕方がないので、一枚の食パンに顔を近付けると、犬のように口に咥えた。こんな食べ方、人生でしたことなんて一度も無いというのに、悉く私の初めてをあの男は嫌な意味で作っていく。
食パンを半分食べた所で、男は帰ってきた。
お皿に乗っていたパンが半分になっている事に気付くと、ハハッと笑いどうやって食べたのか聞いてきた。答える義理なんてこれっぽっちもないと私が知らん顔を続けてると、伸びてきた男の手が私の髪の毛を掴んで顔を引き寄せた。強引で乱暴なやり方に、私も男を睨み付けると彼は目元に笑みを浮かべる。
「なあ、教えてくれよ。どうやって食ったんだ?」
「………っ、」
後頭部の髪の毛を掴んでいた手にぐっと力が入ると同時に、私は小さな唸り声をあげた。それでも睨み続ける私に、彼は言う。いつかその顔が歪む時があれば俺を楽しませてくれよ、と。
「じゃあ、答え合わせというこうか」
「何言って…、あぐっ」
彼はそのまま私の頭を床へ押さえ付け、その下には丁度食パンもあったので見事にそれを擦り付けられた。
「こうやって犬みたいに食ったのか?」
「ングッ…やめ、て…っ」
「さっさと答えろよ」
絶対にコイツの前で苦痛の顔を見せてやるもんか。私はただ男を睨み上げ、口元に笑みを浮かべて「絶対に答えてやんない」と声を絞り出した。すると、男の手がピタッと止まり、私を見下ろす瞳は存外楽しくなさそうなものだった。つまらんな、と呟くと彼の手が離れて、私は解放される。何を考えているのかまるで理解出来ない―――いや、この先も到底理解出来ないだろう。
男はソファーに座ると、足を組んで背凭れに仰け反るように項垂れた。俺はもう寝ると言う彼が、睡眠を取って食事をする私と同じ人間なのだと思うと、この世は何とも不思議だ。
静寂の中、男の寝息だけが私の耳に届く。私が逃げ出すかもしれないって危機感も無く普通に寝ちゃうんだから、やっぱりこの男は人を殺すだけの非道を持ち合わせているはずだ。けれど、私もそんな彼の仲間入りをしてしまったのだから、どれだけ彼を悪く言おうが他人から見れば同じ穴の狢だろう。
ふと家族の事を思い出すと、妹の顔が脳裏に真っ先に浮かんだ。両親が私が行方をくらました事に捜索願を届けているだろうか。妹は元気にやっているだろうか。あの子は私と違って賢くて優しい心を持ってるから、泣いたりしてないだろうか。妹に貸すはずだった小説の事を思い出した。
大好きな作家の新作は、女学生と猟奇的殺人犯の……、あ。
明らかにこの状況があの小説と似ていた。でも、そんなまさか。有り得るはずがない。ただ似ているだけで、私は何を考えているんだろう。ふと彼の眠るソファーの横に立てかけるように置いてある鞄に視線がいく。私の鞄の中身は無事なのだろうか。携帯は初日に破壊されたから、外との連絡手段は立たれていた。
後ろ手に拘束されてなければ、鞄にゆっくり近づいて中身を確認できるはずなのに……。それに、この男が私の交渉にイエスと答えるはずがない。どうにかして鞄を手にしたい。彼から視線を逸らさずに、私は一度床に横になるとお尻だけ上げて芋虫のように顎を床に着けて這った。物音を立てないように、ゆっくりと慎重に鞄に近付くと、体を反転させて後ろ手を伸ばして掴んだ。
確かこの中にあの小説を入れているはずだ。チャックをゆっくり開けると、手探りで鞄の中から一冊の本を取り出す。よし、としおりを挟んでいた場所を開く。……で、これからどうやって読もう。薄暗い室内でも文字を読み取ることは出来そうなのに、本の両端を押さえておくための手が使えない。
「何やってんだ?」
ひゅっと息を飲んだ。ヤバイ、そう思った時には遅かった。男の威圧的な視線で私は口を開くことも、声を上げることも出来ない。ソファーから腰を上げた男が、私の目の前でしゃがみ込むと片手で本を取り上げる。しおりだけが床にはらりと落ち、ただそれをジッと眺めて男の言葉を待つことしか出来なかった。
「へえ……お前もこれ読んでたのか」
彼の言葉は、同じ読者としての発言だと思った。もしかして今回の殺人も、その小説と同じようにしているのではないかと、私が変な想像を膨らませる中で彼は更に言葉を続けた。
「やっぱこういう作品は実体験がなきゃ書けないもんだぜ。下巻の内容は現在模索中だ」
「えっ、」
少しだけ開かれたカーテンから漏れる月明りが彼の顔を照らす。口元で薄く笑う彼の表情は、猟奇的殺人犯の美しき芸術品のようにも見えた。