下駄箱の中には沢山のパンくずとゴミが散乱していた。
こんなことにはもう慣れてしまったし、ほぼ毎日のように私の下駄箱の中はこうなる。誰がやったかも分からないそれに、犯人探しをする気にもなれず、まだ誰もいない早朝に私は日課となった掃除を始めた。備え付けになっている校内に設置されたゴミ箱を持ってくると、その中にゴミを入れていく。また朝から手が汚れたなぁと思いながら、そうでもしなければ学校指定の上履きに履き替えることも出来ない。
掃除を終えて上履きも綺麗にゴミを払ってから履くと、その足で教室に向かった。
一番乗りで学校に来てしまえば、誰かに挨拶する必要もなくなる。まあ挨拶する相手なんて一人も居ないんだけど。
幼い頃に幼馴染みを亡くしてから、私は見る見る内に性格も暗くなり卑屈な性格になっていった。親の期待を一身に背負っていたはずなのに、その矢先は妹へと向けられ、今では家族間でも私は存在してるのかあやふやな状況だ。それでも今こうして生きてられるのは、食べさせてくれる親が居るからで、恨むほどでもないし、ましてや妹を妬んだりすることはなかった。
教室にクラスメイトが何人か入ってきて、私を見るなり視線を直ぐに逸らすと席に着いた。私も特に挨拶する気も起きず、下手に声を掛けたりも出来ない。私と話すと"根暗がうつる"そうだ。
朝礼間近になれば、既に教室内は騒がしい。クラスメイトの明るい声がBGMのように耳に入ってきて、今日も世界は平和なんだろうなぁと他人事のように窓から空を眺めた。
今日一日の学校も終わり、家に帰ろうと岐路を歩く。特に学校で誰かと会話をすることも、触れることもなく一人で過ごした学校は、これで何年目だろうかと、いつかボッチ何周年記念とか出来そう。
どうせ家に帰っても何もすること無いし、書店でも寄ろう。お気に入りの作家が新作を出したとテレビで話題になっていたので、暇潰しに学校で読むのも悪くない。本来ならここで曲がり角を右折するのだが、目的は決まったので左折だ。程なく歩いて辿り着いた書店で、大々的に求めていた作品が紹介されていたので、そっと積まれていた本の山から一冊手に取る。
あらすじを見ると、それは女学生が猟奇的殺人犯と恋に落ちる話だった。まあ、こんなの現実的にあり得ないんだろうけど、物語として読むのなら面白そうだ。
それを手にレジで会計を済ませると、私は紙袋に入った本をそのまま鞄の中に仕舞った。
家に帰り、ご飯を食べた後に自室のベッドで買った小説の序盤の方を読み進める。
殺人現場に居合わせた一般的な女学生が、犯人に人質にされながら逃亡する内容から始まった。展開として最初の部分はあらすじ通りなのだが、気になるのは彼女がその犯人とどうやって関わっていくのか。中盤の楽しみを残したまま本を閉じると、同じタイミングで部屋をノックする音がした。誰だろうと返事をすると、妹の声。
部屋の扉を開けて、どうしたの?と問えば、貸してほしい参考書があるらしく彼女を部屋の中へ通した。
「参考書はそこの本棚に揃えてるから」
「ん、ありがと。……あ、それ今話題の小説?」
本棚で参考書を選びながら振り返った妹が視界に入れたのは、私が先程まで読んでいた本だった。ベッドに転がされたそれを手に取り、あらすじを読んだ妹が「へぇ、こんな内容になってるんだ」と呟く。
「今度私にも読ませてよ」
「うん、いいよ」
他愛のない姉妹の会話は、両親の目が無い時に行われることが多かった。両親から必要以上に期待される妹に、最初こそ申し訳なさを感じたが、それは私が駄目な人間だからだ。彼女に申し訳ないと思うのなら、いっそのこと私は何も出来ない姉で居た方がいいと思い、両親の辛辣な言葉も聞き流せるようになった。
「お姉ちゃん、その……今日はありがとう」
「何が?」
「本当は私が悪いのに、お母さんにあんな酷いこと言われて……」
「大丈夫。私がやりたいようにやっただけだから」
それは夕飯を食べていた時だった。妹が割ってしまったグラスを、自分で片付けようとした所で何故か母親から理不尽な言いがかりを付けられたのは私だった。そして極めつけには「この子が怪我したらどうするのよ。あなたが片付けなさい」だ。何となく流れを察していた私は、持っていた箸を置いて割れたグラスの破片を片付けた。
何度か他の事でも妹が私の事を助けようとして手を出したが為に、私が余計に怒られてしまったことから彼女はそれ以来何もしないようになった。それは賢明な判断だろう、我ながら賢い妹だ。
妹の寂しそうな顔を見て、彼女の大好きなプリンでも買ってきてあげようと、コンビニに行くけどプリン食べる?と聞けば、嬉しそうに頷いてくれた。妹と私だけが共有するこのやり取りは、昔から好きだった。
「じゃあ、行ってくるね。他にも欲しいものがあったらメールして」
「うん、わかった。気を付けてね」
今日に限って新月で、既に外は真っ暗だ。
住宅街は街灯のみが視界を鮮明に照らす。
自宅から徒歩15分の距離にあるコンビニで、プリンを2人分買うと店員の明るい挨拶と共に店を出た。行きもそうだが、帰りにも通る広い公園は遊具も少ないので暗さが際立っている。少し早歩きで通り抜けようと急ぎ足になる中、街灯の下に誰かが立っていた。いや、まさか幽霊とかじゃないだろうと、目を合わせないように横を素通りする。
でも興味本位で少しだけ視線をそちらに向けると、その人の手は何か黒っぽかった。と言うのも、一瞬なので確かではないのだが手袋をしている、という感じではない。こんな真夏に手袋とか有り得ないだろうし。
何事も無く家に着いた私は、部屋で待っている妹にプリンを届けて一緒に食べた。その時も、公園で見掛けたあの人を思い出しては、一体何をしていたんだろうと頭の片隅に置いた。
次の日、今度は夕刻の学校終わり。帰宅途中に公園内を通っていて同じ状況に遭遇した。
昨夜と同じ場所に、一人の男が立っている。見間違いではなかった、手に黒い皮手袋を嵌めて全身黒い服装のその人は、頭にフードを被っている―――次第に気味が悪くなってきて、今日も私は急ぎ足でその横を素通りする。どうか私に気付かないでと願いながら公園を抜けて、ゆっくりと体を反転させて振り向く。
居たはずのあの人は、もう居ない。安心した私は、家に帰ろうと前を見てまた歩き始めた。
家に帰って、いつも通りの母親からの辛辣な言葉を浴びせられる。
今回は私の幼少期のトラウマを抉るような言葉の数々。その中で私の幼馴染みだった子の話まで出されて「あの子が死んだのはアンタの所為よ!アンタが殺したのよ!その所為で私まで犯罪者扱いされたのよ!」と凄い剣幕で捲し立てあげられた。こんな時に妹が居なくて良かったと小さく息を吐いた後は、部屋に戻り鞄の中に読んでいる途中だったあの小説を入れて、そのまま家を飛び出した。
死にたい――――何度も思う事はあった。その度に、妹の笑顔に救われて、死のうと思った気持ちは消える。けれど、私はこれから何度繰り返せばいいのだろう。
辿り着いたのは例の公園前。まだ学校の制服だけど、急いで出てきたのだから仕方がない。虚ろな目で、私は公園内の池に目を付けた。このまま溺死してもいいかも、なんて思っている間に体は自然と其方へ向き、歩き始める。どうせ私が死んだ所で誰も不幸にも幸せにもなる訳じゃないし、生きててもそれは同じだ。
「お前、死ぬのか」
池の柵を越えて、片足を水面に着水しようとした時だ。男の声が聞こえ、思わず踏み止まり其方へ振り向く。見覚えのある身形に私は一瞬目を見開くと、絞り出した言葉は「誰ですか?」という普通のものだった。
「誰ですか?か……、お前は俺の横を二度素通りしたよな。俺は覚えてるぜ」
左右均等に切り揃えた髭の男は口元に薄い笑みを浮かべ、フードから覗く双方の黒い瞳で私を見た。
「死んだっていい事なんて何も無いぞ」
死のうとする人に対して善人が言う台詞だ、と心の中で呟きながら「私の勝手です」と対抗するように彼を睨み言い放った。
「確かにそうだな。だが、お前が選んだその死に方は辛いぞぉ…?苦しいし、その苦痛に歪む顔のまま死ぬんだ」
そして男は続けて言う。
「出来るわけないよなぁ、蛆虫のクソッタレなお前が」
私はもう一度、柵を乗り越えると男の前に立った。
しかし男はただ口元に厭らしく笑みを浮かべるだけで、それは先程の私を止めた時の善人が言う台詞とかけ離れたものだった。
「さっきから何ですか。失礼な人」
「これから死ぬ奴が、俺に対して失礼ってのも可笑しな話しだと思わないか?」
「………、」
男の言う事は尤もだった。
これから本当に死のうとするのなら、他人に耳を貸す必要は何一つない。それでもこの男に耳を貸してしまうのは、私が本当に蛆虫のクソッタレな奴だからだ。しかし妙だと思うのは、彼がどうして私なんかに声を掛ける必要があったのか、だ。まあ、目の前で自殺されようものなら気分が悪いのは誰だって同じだろう。しかし、まるでこの状況を楽しんでいるかのような彼の表情は、少し狂気的なものを感じる。
「俺と一緒に遊ぼうぜ」
「……遊ぶって、」
どういうことですか―――言い掛けて私は黙った。
男の背後から見えた鋭利なナイフと、黒の皮手袋からヒタヒタと垂れていた赤く小さな斑点模様の痕。どうして私は気付かなかったんだろう。嗚呼、私は今からこの男に殺されてしまうのか。そう思った途端に全身の力が抜けて、小さな笑みが零れた。