48これからも…「ふふっ……」 鍋を掻き混ぜる手は止めず、は笑いを零した。そんな彼女の声が聞こえたのか百之助は、なんだ、と寛いでいたソファーの背凭れから体を反転させると彼女の顔を見た。またクスクスと笑いを漏らして、昔の事を思い出していたと彼女は言う。昔とはどの程度の昔なのか。大方の予想は着くので、あえてそれ以上は触れずに腰を起こすと、キッチンに立つ彼女に近寄った。 「混ぜるの代わる」 「今日もお仕事お疲れだったでしょ。休んでて?」 「別に今日は忙しくなかったから大丈夫だ。それに―――」 百之助は彼女の顔から視線を少し落とすと、フと口元に笑みを浮かべる。 「良く働いてくれるのは感謝してるが、もうお前ひとりの体じゃないんだ。あっちで休んでろ」 あっちというのはソファーの事で、彼も言い出したら引き下がらないことを知っているは「じゃあお言葉に甘えて」と持っていたお玉を彼に渡した。 のお腹には新しい命が宿っており、もう少しで御産の為に産婦人科に入院する事になっていた。動ける間は職場に足を運んでいたのだが、段々とお腹が目立ってくると動くのも座るのもやっとなので、いい加減自宅で大人しくしててくれという彼の気持ちも汲んで今は産休を貰っている。結局動ける範囲で家事や炊事をしてしまうのだが、眠い時はしっかりと睡眠を取る。食欲も相変わらずで、妊娠中の爆食いはあっても体重の変化はお腹の我が子の成長と比例したもので、彼女自身の体重の増減は目立たなかった。 「いつから入院なんだ?」 「一週間後だよ。私が居ない間、作り置きのオカズをいくつか冷蔵庫に仕舞っておくね」 「いや、しなくていい」 「えっ?」 「今まで俺も独身生活で一人暮らしも経験してるんだ。自分のことぐらい何とかする」 「……そうだけど、掃除洗濯は良いとして炊事はまるっきり駄目じゃん」 彼女の言う通りなので反論する言葉は彼の口から出てくることは無かった。しかし、今回ばかりは引き下がれないのだ。愛する妻と我が子に何かあっては困ると、少々過保護かもしれないが百之助にとって一番の心配事でもあった。今までだって街中で妊婦を目にしてきた。妊娠発覚してからの彼女がいずれあんな風に大変そうになるのだと思うと、夫として心配にもなるし過保護にもなる。 「前に言ってた食事だけ作りに来る業者に依頼しとくから」 「……本当?」 「ホント。約束するから一週間ゆっくりしてろ」 漸く首を縦に振ってくれた彼女に、百之助は小さく息を吐くと同時に笑みが零れた。 ――――――――――――――――――― 彼女が入院してから、何とか掃除洗濯は熟せていた。炊事に関しては一番心配されていたことだったので、週三で来てくれる家政婦のような人が料理を作って冷蔵庫に保存してくれる。買い出しもその人がするので、スーパーに寄って帰ることは無い。初めて食べてみて、彼女の味とは違うが普通に美味しかった。 最初こそ一人の空間は久しぶりだなと感じつつも、日が経つにつれて心細さは感じた。自分が仕事に行っている間は、彼女も同じ気持ちだったのだろうかと想像する。一応、メールを送ったりと安否確認を含めて連絡を取り合っていた。それでも傍に誰かが居るのと居ないのとじゃ訳が違う。 そんなことを考えながら、いつも通り仕事をしているとスマホにの入院している産婦人科から着信が入った。直ぐに通話を繋ぐと、看護師から「陣痛が始まってから破水したので、今から分娩室に入ります」と告げられる。立会い出産を希望していた百之助は、直ぐに荷物を纏めると鶴見部長に事情を説明してから早退した。 病院に着いてからは、直ぐに準備をして分娩室に通された。既に分娩台で呼吸も荒く蒼白した表情のの額からは脂汗が滲む。 彼女に近寄り、左手をぎゅっと握ってやると漸く百之助の存在に気付いたのか、視界に彼を捕らえると一瞬目を見開いた後に目を細めて力なく微笑んだ。 「百之助…ッ、うぅ、」 「頑張れ、…!」 「ん、…がんば、りまっ、す…!ハァ、ハァ…フゥゥ」 深い呼吸を繰り返し力んで、壮絶なお産状況に彼はただ彼女の額の汗を拭ってやったりと、出来ることが少ないことに結局、男はこんな時でも何もしてやれないんだと思った。何度か血圧が下がったりと苦しい状況なのにも関わらず、は最後の踏ん張りを見せて、悲鳴にも近い声を上げながら我が子を産み落とした。 初めて耳にする産声に、が疲労困憊になりながらも嬉しそうに、百之助を見る。産まれましたよ、と告げる彼女の一言に彼は茫然としていた意識のまま立ち尽くして、あぁ、と小さく呟いた。たった一言、彼から出た言葉は何とか絞り出したもので、とても震えていた。 「可愛い男の子ですよ」と助産婦が体を綺麗に洗いタオルを巻いた赤子を、の胸元に寄り添わせると、彼女は微笑んで「はじめまして」と我が子に話しかけた。 「百之助も…抱いてあげて…?」 それをただ黙って眺めていた彼に、は視線を向ける。さあ、と背中を押されるように我が子をそっと胸元に抱いた百之助は、ツゥと頬に伝う温かいものを感じた。 今までだって泣くことのなかった自分が、我が子の誕生に涙を流したのだ。その様子を見ていたも目を瞬かせると、ふっと微笑んだ。 「私たちの子ですよ…、百之助の血がこの子の中に流れてる」 「あぁ……そう、だな。俺たちと同じだ」 百之助は、彼女の言葉を聞き胸の奥がぐっと熱くなる。もう、一人じゃない。血を分けた我が子を抱く手にきゅっと力が入った。彼の目からは涙が何度も流れ落ちる。そっと伸ばした彼女の手に、百之助は顔を近付けるとその手が、指先が彼の涙を優しく拭った。 「百之助はもう一人じゃないよ。私と、この子がいる」 彼女の笑顔に、百之助も涙を流し笑った。 凄く可愛いですね。そう言って宇佐美と、隣で同じように我が子を覗き込む優子は微笑む。出産祝いにわざわざマンションまで顔を出してくれた二人に、は淹れたてのコーヒーをテーブルに置いてその光景に嬉しくなった。 「いやぁ見事に尾形と同じ顔が生まれたなぁ…」 「もしかしたら性格はちゃん似かもしれないわよ?」 二人の会話を聞きながら、もそっと近付く。確かに顔は百之助そっくりだ。目はまだ上手く開けれないのか目蓋を重そうにしているが、眉毛なんて瓜二つ。これで性格が彼女に似てしまうとなれば明るい百之助の爆誕である。 「出来れば性格も百之助みたいに大人しいと良いんだけどね」 「明るい尾形とか良いじゃん。想像しただけで笑えるよ」 「おい、俺が買い出しに行ってる間に変なこと話してんじゃねーよ」 オムツの買い出しに行っていた百之助は、いつの間に帰ってきたのか宇佐美の後ろに立つとそのオムツの入った袋を彼の頭に乗せて言った。頭に乗ったそれを払い除けた宇佐美は、そそくさとテーブルに移動してコーヒーを飲み始めた。 「もう名前決めたの?」 優子の一言にも百之助も沈黙する。彼らはまだ我が子の名前を考えていない。故に出生届も出せていないのだ。一応候補は何個かあったのだが、どれも二人の中でパッとしなかった。二人の様子を見ていた優子は、なるほどね、と状況を理解する。 「んー……百で、モモとか」 「尾形の名前から取ったのかよ」 宇佐美は優子の提案にすかさずツッコミを入れる。女じゃあるまいしモモって読み方はねぇだろと言う宇佐美に、優子は「じゃあアンタも何か言ってみなさいよ!」と謎の痴話喧嘩が始まってしまった。そんな二人の会話を聞いていたは、案外それもありかもしれない、と呟き隣に立つ百之助を見上げた。本気で言ってんのかよ、と渋い顔をする彼に「駄目ですか?」と苦笑する。 「別に駄目って訳じゃねぇが……本当にいいのか?」 「なんだか百之助ジュニアって感じがして私は好きだよ」 「……ハァ。分かった、じゃあ"百(モモ)"だな」 用意していた出生届を戸棚から取り出すと、百之助は我が子の名前を"百"と書いて最後の空欄を埋めた。 こうして名付け親は野々村優子になったのであった。 ベビーベッドで眠る我が子―――百を見て、健やかに育ってほしいと明るい未来を願うと、と百之助は微笑む。 尾形家のこれからは、きっと幸せだ。 Fin……? |