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再スタート



『そう、問題は解決したみたいで良かったわ』
――――心配掛けてごめんね。それと、ありがとう。

 優子ちゃんにLINEで腕の怪我の事件は解決したことを報告した。
 仕事も休日の今日、私はスマホを机の上に置くと洗面台で顔を洗って着替えを済ませる。普段通りの化粧をして、あとは――――全身鏡に映る自分を見て、明らかに好きな人と会う恰好じゃないよなあ、と苦笑した。まあ今更お洒落したって仕方ないのだから、いつも通りのラフな格好にショートブーツの組み合わせで荷物を纏めると玄関を出た。

 隣人のインターホンを鳴らせば、尾形さんも直ぐに出てきて一緒に駐車場まで移動する。最近買った洋楽CDを車内BGMにさせてもらい、ちょっとだけ鼻歌を歌ってみると無表情だった彼の口元に、笑みが零れていた。
 久しぶりにゆっくり出来てることに、この上なく幸せを感じた。

 不動産屋に行って、例の購入する分譲マンションに移動した。
 佇まいから金持ちしか利用出来なさそうな見た目で、エントランスなんて超広い。なんだこれ……。開いた口が塞がらない。

「間抜け顔になってるぞ」
「……尾形さんの稼ぎが良い事は知ってますけど、本当にこのマンションで大丈夫なんですか?後から貧乏生活になっても私の財力じゃ助けにもなれませんよ?」
「心配するな。俺には親の財産がある」

 親の財産ってなに……!?

 初めて聞いた財産という言葉に、尾形さんってどこかの良いところのお坊ちゃまだったのかと想像する。誰からも聞かされてないし、尾形さんからも聞かされていない話に、まだまだ彼には秘密があるのだと思った。
 いつか話してくれるだろうけど……こう、なんか心臓に悪いってやつだ。

「じゃ、じゃあ……尾形さんにお任せします……」

 部屋に案内されて、まずリビングは超広い。
 生きてる内にこんな良い場所に住めるなんて思っていなくて、正直このあと物凄く地獄に突き落とされるようなことがあるんじゃないかと心配になる。スマホのカメラで一部屋ずつ写真を撮っていく中、尾形さんは少し広すぎたかと呟いて手を顎に添えた。
 そうですよ広すぎなぐらいですよ……!こんなに広いんじゃ、あの狭いアパートが恋しくなっちゃいますよ!

「あの……変更するなら、まだ間に合うと思いますけど」
「……いや、ここでいい」

 やっぱり尾形さんの気持ちは揺らがなかった。

 一通り見た後、まあ広いけど最新の電化製品も完備されてて文句なしだったので、尾形さんが此処で良いなら私もこれ以上なにも言うまいと口を噤んだ。こんな大きな買い物出来る彼の財力も凄いと思うけど、益々尾形さんの謎が深まる一日だった。


 不動産屋に戻って、契約書にサインをして色々と手続きを終わらせた。
 お昼を抜いた状態だった私たちは帰り掛けに、いつものラーメン屋に寄った。一応、引っ越しは二週間後にしているので片付ける余裕はある。二人分の荷物を入れるのもどうかと思い、買い付けしている業者に頼むことにした。

「こんなにあっさり引っ越しちゃっていいんですかねぇ」
「何か不満でもあるのか?」
「不満は無いですよ。結局、尾形さんに頼ってばっかりだったなって思っちゃいまして」
「お前は何も考えなくていい」
「そう、それ!それですよ!」

 注文したラーメンが届く間に交わした会話の中で、私が尾形さんに対する疑問を抱いた部分はここだと思った。
 その、何も考えなくていい。お前は気にするな。って言葉に私の意見は全無視されてる気がしてならないのだ。同じように働いてるし(給料は結構違うと思うけど…)、私も少しは頼られたいというか…。尾形さんの胸に寄り掛かるだけの関係もどうなのかと思った。

「もう少し、私の事も頼って欲しいです……。尾形さんばっかりに背負わせてる気がする」
「じゃあ誰がご飯作るんだ?」
「え?」
「俺が出来ないのは自炊だ。そこをカバーしてくれると俺は助かるんだが…?」
「……っ、全力でやります!美味しいご飯作ります!」

 完全に乗せられてるけど、頬杖をついた尾形さんのお願いするような、小首を傾げる仕草は私のドツボを貫いた。実は自分の可愛さを理解した上で、やってるんじゃないですかね。
 悔しいけど、私の完全敗北だった。

「当分の間は俺が金銭面の工面をしてやる。お前もその間に働いて貯金しておけ」
「…はい」
「貯まった金で、俺に美味い飯でも食わせてくれりゃそれでいい」
「……尾形さんってズルい。そんなの頑張るしかないじゃないですかぁ」
「お前の飯は美味いからな。俺の胃袋を掴んだんだ、期待してるぜ」

 真っ赤になっていく顔が熱くて、でもその言葉が本当に嬉しかった。
 ホント、無意識誑しだよ……!

 運ばれてきたラーメンを目の前に、隣にはいつもの替え玉が控え選手のようにベンチ入りしていた。今日はいつものチャーシュー麺では無く、醤油ラーメンだ。メンマも少し多めに入っているのは、店主と仲良くなった私へのオマケだろう。
 お前の食いっぷりは相変わらずスゲェなと言われながらも、美味しいものは鱈腹食べたいので絶対に我慢したくない。めっちゃ幸せですと笑顔で答えて、私はこの幸せを噛み締めた。



―――――――――――――――



「えぇっ、分譲マンションに引っ越しするの!?」

 昼休みの食堂で優子ちゃんに引っ越し先を教えた。
 ついでに、尾形さんと両想いになったことを伝えると、ふーんとニヤニヤされる。何その楽しそうな顔…!

「まあ、いつか引っ付くだろうなぁとは思ってたけど、そっかぁ…ついにかぁ」
「でも、両想いになったってだけで……付き合ってるのかどうか分からないんだよねぇ。付き合おうとも言われてないし」
「そうなの?じゃあ、何で一緒に住むことになってるわけ?」

 そうなのだ。付き合おうと言われていない上に、何故か一緒に暮らすことになって、全てがぶっ飛んでいる。まるで順序のない流れに、私は今でも全てが混乱の域だった。

「ねえ、それ尾形さんに聞いた方がいいんじゃない?私たち付き合ってるのって」
「えっ…」
「えっ、じゃないわよ。だってあの尾形さんよ?ハッキリ言う癖に、変な所で抜けてるじゃない」
「た、たしかに…」

 じゃあ今日のオカズを届けるついでに聞いてみようかなぁと考える。

「私も色々話したい事もあるし、折角だから今日の夜はバーに行かない?」
「へっ!?」

 バーって何。あのオシャンティーな空間に行くの?この私が?
 全てが異次元の異空間の、あの大人の世界に私が飛び込んじゃうのか……。

「あら、バーを知らないの?」
「知ってる!知ってるけど……行ったこと無くて」
「ゆっくりお話しするには最適よ。居酒屋だとガヤガヤして落ち着かないし」
「そ、そうだね」

 優子ちゃんは宇佐美さんも呼んで4人話そうと言うので、私は尾形さんに連絡を入れることにした。電話で話すことでもないからと、LINEを送ってみると返事は速攻で返ってきた。尾形さんの返信速度は、かなり電子機器に慣れた人のそれだった。

「尾形さんどうだった?」
「一応、OK貰えた。でも帰りの時間は23時だって言ってる」
「なにそれ。お父さんじゃないんだから」

 私もそう思うと二人で苦笑していると、彼女の携帯にも宇佐美さんから返信が入り4人でバーに行くことが決定した。

 ついにバーデビューかぁ……大人になったなぁ私。