38覚悟会社で私の右腕の怪我を見た優子ちゃんは、何それと速攻で人気のない廊下まで連れて行かれた。私と向き合うようにして立っていた彼女は、怪我の理由を知りたいのかジッと見てくるだけで、こちらの様子を窺っている。 どう説明したらいいのか、そして彼女が犯人に狙われないようにするにはどうしたらいいか。私は考えた末に、料理中に包丁が大暴れしたと摩訶不思議な言い訳をしたもんだから、優子ちゃんの額に青筋が浮かんだのは言うまでもない。 「あのねぇ!私を出し抜けると思ってるわけ!?」 「思ってないです、ハイ……」 「ちゃんの顔見てたら、ただの怪我じゃないってことは分かったけど……私に言えないことなの?」 「……ごめん。優子ちゃんを巻き込みたくないっていうか……分かって欲しい」 私が本当にごめんと謝り彼女を見ると、眉間の皺を更に深くした彼女は渋い顔をした後、ハァと溜息を吐いた。 「もうちゃんの頑固な性格には慣れたけどさ、もうちょっと私の事も頼って欲しいものね」 「気持ちは嬉しいし、本当に駄目な時はちゃんと相談するから、今は少し待っててくれないかな」 「待つのは苦手だけど、ちゃんの頼みなら私は我慢できるから……。本当に駄目な時は私を頼りなさいよ!」 優子ちゃんがものすごく聖女に見えた。 私は彼女の手を取って、友達で良かったと苦笑すると彼女は少し照れ臭そうに「友達じゃなくて、もう親友だと思ってるわ」と言った。一瞬目を見開いて、私も同じ気持ちだと彼女に微笑んだ。 「仕事は私も手伝うから、無理は禁物よ」 「うん、ありがと。じゃあ半分以上はそっちにパスするね」 「やめて」 私たちが笑いながらオフィスに戻ると、宇佐美さんも私の腕の怪我について聞いてきたので、ちょっとした事故ですと誤魔化した。優子ちゃんのフォローもあり勘繰られることは無かったけど、彼も同じように私の仕事を少し請け負ってくれたので、今日の仕事は幾分か楽になり有難かった。 ふと尾形さんを見ると、いつも通り仕事をして華沢さんと話していた。 彼はきっと何も気付いていない。 気付かないままでいて欲しい。 本当の真実を―――― 定時になり仕事がもう少し残っていた私は、急いで終わらそうとペースを上げてキーボードに打ち込んでいると、宇佐美さんにもう帰りなよと言われた。残りは俺らがやるからと優子ちゃんもその言葉に苦笑して頷くと、私の背中を押して家に帰るよう促された。 「ありがとう」とお礼を言って、彼らの厚意に甘えて素直に帰ることにした私は、エレベーター待ちをしていると隣に気配を感じた。ゆっくり視線だけ向けると、彼女――――華沢さんは前だけ見据えて「少しお話しない?」と笑う。 「……分かりました」 きっと、逃げることも出来た。 けれど逃げたくなった。 エレベーターに乗らず、二人で移動した場所は外にある非常階段の踊り場。人気も無いので二人で話すにはもってこいの場所だろう。 私は彼女の言葉を待った。ジャケットのポケットから煙草を取り出して一本吸い始める彼女は、どこか虚ろな目をしている。 「私ね、尾形君に振られたの」 「……そうですか」 振られたと言いながら、彼女はフフッと笑みを零す。 「次はちゃんと上手くいくって思ったの。でも彼ったら、誰かさんを好きなんですって」 彼女が何を言いたいのか、何となく分かった。誰かさんというのは私の事だろう。もしかしたら、尾形さんが彼女を振る時に、私の名前を出したのかもしれない。 「貴女にしてしまった事は悪いと思ってるわ。でも、私は後悔してない」 「……華沢さん、私には何の話か分かりません」 「…え?」 「私に何かしたんですか?」 これ以上、彼女が自白して自分を追い詰めていくようなことがあるなら、それを止めなければいけないと思った。私に話すことで、彼女の中で私にしたことを悪ではないと肯定しようとしている。 後悔してなくてもいい。だけど、これ以上誰かを傷付けてしまう前に、ちゃんと冷静になって欲しかった。 「私には華沢さんが何を言っているのか分からないです。それに、この怪我は私が階段で転んでしまって付けた傷だから、華沢さんには関係なー―――」 「ふざけないでよッ!私の事を庇ったつもり!?偽善者になるのもいい加減にして!」 確かに私は偽善者かもしれない。 お節介な同情だってしてしまった。 だけど、誰かが傷付いたり、死んでしまうようなことがあったら、何の罪悪感もなく生きていける訳がない。麻痺してしまった感覚が冷静さを取り戻した時、本当の意味で彼女は後悔することになる。 「私は何があっても貴女の事を止めますッ」 「……なによっ、何が…いけないって言うのよ…!」 じゃあ、一度後悔してみます?そう言って私は薄ら笑いを浮かべる。 踊り場の手摺りから身を乗り出して下を見ると、華沢さんに振り向いて言った。 「もし私が助からなかったら、尾形さんのことお願いします」 「…えっ!?」 そのまま手摺りから手を離し、重力は前のめりに掛かっていく。全体重が空中に投げ出された時、私は速度を増して下に落ちた。 「さんッ…!!」 悲鳴のような声で私の名前を呼んだ彼女の声が小さく聞こえる。手摺りから身を乗り出して下を覗き込む彼女は、落下した私を見て顔を蒼白させていた。 でも私には勝算があった。 そう、青くなっていた彼女の顔は、次第に唖然となっていく。 「……なっ、え!?」 「ったぁ…。流石に屋根の上に落ちても痛いなぁ」 「な、なに…よ……っ、吃驚させないでよっ」 私は、踊り場の真下に出入り口の屋根があることを知っていた。一応受け身は取ったけど、コンクリートで出来た平らな上に落ちたのは痛い。ちょっとだけ手の平を擦りむいたけど、まあいい。 「どうでしたか?少しは後悔しました?」 「後悔ってもんじゃないわよ……肝が冷えたわ…」 「これに懲りて、誰かを傷付けるような事は絶対にしないでくださいね!」 「……ははっ、負けたわ。尾形君があなたを選んだ理由、何となく分かった気がするわ」 そう言って、涙を流しながらも私を見下ろしていた彼女の顔は、最初の頃に出会った時の綺麗な笑顔だった。 翌日、鶴見部長が朝礼時に、華沢さんが支社に戻った事を告げた。 理由を語られることは無かったけど、最後に華沢さんの笑顔を見ることが出来たのは、きっと私だけなのかもしれない。 休憩中、自販機で缶コーヒーを買って飲んでいた私と尾形さんは、ただボーっとしていた。 「……華沢さんが支社に戻っちゃいましたね。折角良い先輩に巡り合えたのに」 「まあ、仕事だから仕方ないだろ。……つーか、お前はその怪我なんだよ。また増えてんじゃねえか」 「えっ、あ……あはは。これは私が転んで擦りむいちゃったやつです」 手の平の大きな絆創膏を見て、尾形さんは眉間の皺を深くする。 また適当な嘘を吐いてんじゃないだろうなと言いたげな視線に、今回は何としてでも嘘を吐かなければいけないと、ただ困ったように笑っていた。 昨日、彼女に別れ際に言われた言葉を思い出す。 ―――――もっとイイ男を見付けて、貴女に紹介出来るように頑張るから。 「きっと、幸せになってくれますよね」 「…何の話だ?」 「独り言です!」 盛大な独り言だなと、彼は口元に薄く笑みを浮かべた。 |