36ヤツが出た!「おがっ、尾形さん……!助けて!」 仕事が終わり、珍しく定時で退社していた尾形さんの部屋に、私は泣きながら飛び込んだ。落ち着いて何があったか話せという彼に、何度か頷いたあと「奴が出たんです!」と震える声で叫ぶ。 「……奴ってなんだ」 「分からないんですか!?奴ですよ!あの黒くてカサカサしてる生き物です…ッ」 「ゴキブリか」 「いやあぁっ!口に出さないで下さい!鳥肌が…っ」 ぶるぶると震えながら、尾形さんにゴキブリ退治をお願いすると飄々とした顔で分かったと答えた。どうやって退治するのか聞くと、スリッパで叩くと言う。いやまって叩いたら中身が……! 想像するだけでモザイク処理される奴らに、もっと違う方法で退治しましょうと提案してみる。でもそれ以外に何があるんだと聞かれて、殺虫剤の存在を思い出した。 「尾形さんって殺虫剤とか持ってないですか!?」 「無いな。虫は叩いて殺す」 だから叩いて殺したら潰れて中身出ちゃうって…! 「じゃあ買ってきます!ゴキジェット!」 「あ、あぁ行ってこいよ」 そう言って踵を返すも、私は重大なことを思い出す。慌てて部屋を飛び出してきたので、財布は疎か携帯も部屋に置いたままだった。 「あの…、お金貸してくれませんか…?」 「……ハァ、俺も行くから」 「すみませぇん…!」 めそめそと尾形さんに連れられて車に乗ると、近くのスーパーまで行きゴキジェットを購入した。普段から部屋の掃除はやってるつもりだったけど、マンションと違ってアパートは出てしまう。ゴキジェットの入った袋を握り締めると、じゅわっと手汗が滲んだ。 アパートに戻ってから買ったばかりの殺虫剤を手に、そっと玄関の扉を数センチ開ける。でも、怖くてそれ以上開けれずに立ち止まっていると、後ろから尾形さんにガッと扉を思い切り開けられた。 「ちょっと尾形さんっ、ゴキブリが飛び掛かってきたらどうするんですか!?」 「それ貸せ。お前がやるといつまで経っても終わらん」 「あ、ありがとうございます…」 私の手からひょいっと殺虫剤を奪った彼は、靴を脱いでさっさと奥の部屋へ入って行く。玄関から中に入るのも躊躇っている私に、どこで出たんだと大きな声で聞いてきた。見たのは洗面所だと伝えれば、直ぐに彼はそちらに移動する。居たぞと報告を受けた後、殺虫剤を噴射する音が聞こえた。 どうなったか尋ねると、引っ繰り返って死んでいると言われる。彼がそれをティッシュで包んでゴミ箱に捨てるのを見届けて、一安心した私は部屋に上がった。 「ありがとうございました。未来永劫私の部屋は安泰です」 「大袈裟だな。ただ洗面台は殺虫剤撒いたから換気しとけよ」 「はい、分かりまし―――――」 洗面台を覗いて私は絶句する。そこには洗濯前の衣服や下着を仕分けている最中のままだったからだ。その山の上にパンツとブラもしっかりと乗っていて、やってしまったと顔を蒼白させた。 「どうした?」 「ああああああ!!尾形さん覗かないで下さい!!」 「っるさ……。覗くも何もさっきそこでゴキブリ殺して、」 尾形さんは現場を指差したあと、私の言葉の意味を知ったのか喋っていた口を止めた。 「……見ちゃいました?」 「見てない」 「嘘だ!めっちゃ視線が洗濯の山に向いてましたよ!?」 「俺はお前の下着なんて見てない」 「見てるじゃないですかぁ!!」 恥ずかしさで顔を真っ赤にして涙を浮かべていると、尾形さんは顔に掛かっていた頭髪を掻き上げるとスマンと謝った。 「しかし、下着見られたぐらいで恥ずかしがってたら、一緒に住むとき大変だぞ」 「まだ一緒に住むって言ってないじゃないですかっ」 「じゃあ、それまでに慣れたらいいんじゃないか?」 どういうことなの。 この微妙な空気にむずむずして、お礼にコーヒーを御馳走しますからと台所へ移動する。彼はソファーに座ると背凭れに片腕を乗せて足を組んでいた。そのポーズがやけに様になっていて格好いい。悔しいけどそのポーズ好きだ。 既に彼のお気に入りとなっている、黒猫の可愛いイラストが掛かれたマグカップを渡す。二人でソファーに座って寛ぐと自然と無言になって、でもその沈黙も嫌いじゃなかった。静かな時間を共有出来るって、ある程度仲良くならないと出来ないことだと思う。 「明日、土方グループの新商品お披露目会があるらしい。俺も出席するんだが、お前も来るか?」 「……尾形さんっていつも誘い方が唐突ですよね」 「仕方ないだろ。こればっかりは俺も鶴見部長に今日聞かされたんだ」 「でも、私は土方グループに近付いちゃいけないんでしたよね?」 「月島の引継ぎがあってから、そうも言ってられなくなった。会場の隅で大人しくしていれば問題ない」 「じゃあ、参加しますね。大人しく料理でも食べてます」 「そうしてくれ」 普段の仕事着のスーツで参加するのかな。服装について伺ってみると、有名企業の社長や社長夫人が多く参加するので、フォーマルドレスの着用が普通だと教えてくれた。持ってないし買いに行かなきゃいけないなあ。でも明日ってことは間に合いそうにないか……。 「…すみません。やっぱり不参加になります」 「仕事でも溜まってんのか?」 「そうじゃないです。一着もフォーマルドレスなんて持ってないんです」 「………分かった。今すぐ出掛ける用意をしろ」 「え?」 「買いに行くぞ」 「………えぇっ!?」 だから尾形さんは唐突過ぎるんだって…! ソファーから立ち上がった彼は、急ぎ足で自分の部屋に戻って車の鍵を取って来ると、まだ店は営業してるはずだと言う。時刻は20時過ぎで、昨今の営業時間を考えるとギリギリといったところだ。 車を20分ほど走らせて着いたのは、婦人ドレスが売っているお店だった。お上品な佇まいのその店に足を踏み入れて私は気付く。急いで出てきた所為で今の私の恰好はだぼっとしたパーカー一枚にショートパンツだ。もっとマシな恰好するべきだったと、店の雰囲気とは対照的な恰好の自分が恥ずかしくなった。 「好きなの選べ。買ってやるから」 「え!?いやそれは……」 近くにあったドレスの値札をチラッと見てギョッとした。高そうだなぁとは思ったけど、本当に高いお店じゃん!小声で尾形さんにもっと別の店にしませんかと聞くが、時間を考えろと言われてしまう。この店も閉店は21時らしく、確かに他の店を寄っている暇は無かった。 「じゃ、じゃあ一番安そうなやつを…」 「これはどうだ」 「えっ、あの」 尾形さんは手あたり次第で取ったドレスを私に宛がう。値段も見ずにそんなことしちゃったら、私のクレジットカードが火を噴いちゃうじゃないですか! そんな私たちを見兼ねた店員が、何かお探しですかと声を掛けてきた。益々やり難くなったこの状況に、私の心臓はどくんどくんと凄い勢いで体中に血を流していく。 「こいつに似合いそうなドレスを探している」 「畏まりました。そうですね…お客様の場合はこちらなんて如何ですか?」 店員が手にしたのは、白を基調に胸元をレースであしらった上品なドレスだった。スリット加工もされているので、少しだけ足が見えてしまうが厭らしさは無い。問題はタイトなドレスなのでお尻のラインが出てしまう事が難点だった。 「あの、他のやつはありますか…?」 「では、こちらのワンピースドレスなんて如何でしょうか」 「尾形さん!これ!これにしましょう!」 「まあ、いいんじゃないか」 ザ・普通って感じのシンプルな白色ワンピドレスを受け取ると、自分の体に当てて鏡で確認する。うん、これなら私が着ても違和感無さそうだ。 一応値段を確認してみると、一番最初に尾形さんが選んだドレスよりも値段が倍以上していた。なんでこんなに高いの!? 「…………」 「どうした。買うんだろ?」 「……やめます」 「は??」 私はそっと尾形さんに値札が見えるように渡す。尾形さんはその値段を見て、あぁ…と小さく呟くと私を見てこれが欲しいのかと聞いてきた。出来たら買いたいですよと遠い目になる私に、じゃあ買ってくると言うので本日二度目のギョっとなる。 「これを買う。会計してくれ」 「畏まりました」 「尾形さん…っ、私そんな高いの買えないですよ!」 「これで頼む」 完全に私の言葉を無視して、彼は自身の財布からクレジットカードを取り出すと支払いを済ませてしまう。これから私は尾形さんにどうお返ししていけばいいのだ。その場でしゃがみ込んで、もう嫌だと膝に顔を埋めると「立て、帰るぞ」と彼の声が降ってきた。 ぬっと立ち上がれば、その手を引かれて店を出る。 歩きながら私の手を引く彼の背中を見詰めて、尾形さんと名前を呼んだ。なんだと歩きながら答える彼はこちらを見ない。 「今度、お金返しますね…」 「別にいい。俺が買いたいと思ったから買っただけだ」 「またそうやって……尾形さん優し過ぎますよ…」 「別に俺は優しくしたくて優しくしてるんじゃない。お前だから買ってやってもいいって思ったんだ」 珍しく饒舌な彼の耳は、赤くなっていた。 そんな彼を見て私まで恥ずかしくなってくると、繋がれていた彼の指がそっと私の指に絡める。どくんどくんと高鳴る鼓動に私は死んでしまいそうだった。 「あの…、尾形さん」 「なんだ」 「尾形さんって、好きな人いるんですか…?」 「………いる」 それは誰なのか聞きたい気持ちを引っ込めると、そうなんですねと返してきゅっと唇を噛んだ。そのまま車の前まで着くと、乗車する為に繋がれていた手は自然と解ける。 無言で運転する彼の横顔を見て、私はこの気持ちにどう整理したらいいのか、整理することが出来るのだろうかと、そっと視線を窓の外に向けた。 アパートに着いて、階段を先に上り始めた私を尾形さんが引き留めると、振り向いた時に見えた彼の表情は少し緊張した雰囲気だった。 「さっき、なんで俺に好きな奴がいるか聞いたんだ…?」 「それ、は……。えっと、深い意味はないというか……何となくですっ」 「そうか。じゃあ俺も同じことをお前に聞いてもいいか?」 「えっ!?」 私の好きな人を聞いてきた彼に、誤魔化すべきか、もう気持ちを伝えるべきか迷った。考えた末に出てきた言葉は、彼と同じように「います」という答えだった。 「それは俺の知ってるやつなのか?」 「あー……えっと、知ってるっていうか……」 貴方なんですけどね…! 妙な腹の探り合いになってきたこの状況に、私は夜風が寒いので部屋に戻りませんかと苦笑する。彼は渋々分かったと返事をして、止めていた足で階段を上り始めた。尾形さんってこういう時は素直なんだよなあ。 階段を上って来る彼の背後に異様な気配を感じて、私は目を見張った。 新月の今日、その暗闇の中で街頭の光を受けて反射したそれが彼を目掛けて突き立てようとする。私は咄嗟に彼を庇うように駆け出した。 いつだって前途多難だ。 |