33

平凡な日常

 昨日は、尾形さんがアパートに戻ってくると、わざわざ私の部屋に訪ねてきて「ただいま」と言った。そのまま彼は自分の部屋に戻ってしまうかと思ったのに、予想外の訪問に私は思わずキョトンとしてしまったのは言うまでもない。
 出て行った時より幾分かスッキリした表情をしていたので、きっと無事に事件解決したんだろうと私も「おかえりなさい」と微笑んだ。


 次の日の早朝、ゴミ捨て場にゴミを持って行くと大家のお婆ちゃんと挨拶を交わす。でも少し悲しそうな表情をしていたので、何かありましたか?と聞く。すると大家さんは実はねぇと何やら不穏な空気を醸し出しながら話し始めた。

「このアパートを売り払うことになっちゃったのよ」
「……え?それって、」
さんも越してきたばかりで大変申し訳ないんだけど、ここは更地になってしまう」
「じゃ、じゃあ……今から引っ越し先を考えなきゃいけないってこと、ですよね…?」
「そうなるねえ」

 そうなるねぇってお婆ちゃん…!
 どうやらまだアパートの住民には伝えてないらしく、近々掲示板に張り紙をする予定になっていたと話す。大家さんの息子さんがこの事を決めたらしいんだけど、既に業者には連絡済みで最終退去日は今年の夏頃だと言われて、私は朝から心臓がバクバクになっていた。

「もう決まってる事なんですよね!?」
「そうなるねぇ」

 ちょっとお婆ちゃん「そうなるねえbot」になってるよ!
 急いで階段を駆け上がると、直ぐに尾形さんの部屋のインターホンを連打して鳴らした。少ししてドアが開いて眠そうな目を一生懸命開けようとする尾形さんが姿を現す。朝から可愛いですね!

「ちょっとお話があるんですけどいいですか?」
「あ、あぁ…入れよ。ふあ」
「お邪魔します。出勤時間もあるんで手短にお伝えしますね!」

 玄関のドアを閉めて、その場で私は尾形さんを見上げた。

「このアパート、今年の夏頃に取り崩しらしいです」
「……は??」
「言葉のまんまです。大家さんの息子さんが決めたらしいので、既に業者に話が通ってるって言ってました。早いところ私たちも新しい住居見付けないと野宿ですよ!」
「いやビジネスホテルとかあんだろ……」

 私はそんな余裕ありませんから!食費に全てを捧げてますんで!

「私は次の土日に不動産屋に行って、何軒か資料を貰ってこようと思ってます。尾形さんはどうしますか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。寝起きで頭が回らん、ゆっくり考えるからまずはコーヒーを飲ませろ」
「えっ、私がコーヒー作るんですか?」
「俺の睡眠妨害したのは誰だ?」
「私でした!今すぐ作ります!」

 部屋に上がって直ぐにコーヒーを淹れる準備をする。ついでに何か食べるか聞くと、トーストが食べたいというのでパンを探す。中々見つからないので尾形さんに聞くと、食パンは俺の部屋に無いと言う。

「ちょっと私の部屋から取ってきます…!」
「おー、頼む」

 頼むじゃないよまったく。最初から食パンなんてあの部屋にあるはずがないって、なんで気付かなかったんだ。トースターも無かったことを思い出すと、自分の部屋でトーストしながら私は食パンをそのまま口に入れて牛乳で流し込む。出来たトーストをお皿に乗せると、急いで尾形さんの部屋に移動した。

「ど、どうぞ……トーストです…!ハァハァ」
「すげえ息切れしてんな」

 トーストを食べながら私を見てそう言った尾形さんに、今すぐ擽りの刑を実行してやりたい。

「お前はもう食ったのか?」
「食べました。ええっ、トースト焼いてる間に食パンをそのまま」
「急かして悪いな」

 ほんとにな!
 寝起きが可愛いとか思っていた彼は、朝から超絶小悪魔だった。

 惚れた弱みで彼の言う通りに頑張って動いたけど、金輪際早朝のピンポン連打は如何なる時もしないと心に誓った。







「ええっ、アパート取り壊されちゃうの?」
「そうなんですよ…。だから、これから引っ越し先を探さなきゃいけないんです」
「大変だねぇ。あ、俺の住んでるマンションなら空き部屋いっぱいあるよ」
「宇佐美さんとこのマンションってお高いんでしょ?」
「まあ、それなりに家賃は高いけど、ちゃんなら今後は払っていけるんじゃない?」

 それは遠慮しますとお断りして、私は優子ちゃんの席を見た。
 風邪を引いて三日間の休暇申請をした彼女が心配で、三日目にお見舞いに行くとLINEを送っておいた。直ぐに返事がきて『楽しみにしてる』とハートの絵文字が文末に散らばっている。

「三日後に優子ちゃんのお見舞い行くんですけど、宇佐美さんも行きますか?」
「んー、俺は遠慮しとく。あいつ良い顔しないと思うから」
「……なにか、あったんですか?」
「え?特に何もないけど」

 ほんとに?と疑いたくなる気持ちは置いて、出来た書類を持って尾形さんの席に向かった。
 頼まれていた書類ですと言って渡して、ふと華沢さんの席に視線が向く。優子ちゃんと同じく、華沢さんも風邪を引いたとかで休みを貰ってたけど、大丈夫なんだろうか。

「尾形さん、今年は春風邪でも流行ってるんですかねぇ…」
「春風邪?んなわけねーだろ」
「……ですよね、うん」

 次の仕事を受け取ると、丁度オフィスに戻ってきた鶴見部長に呼ばれる。何だろうと近寄りお疲れ様ですと挨拶をした。ちょっと話があると言われて別室に移動した私たちは、向き合うように椅子に座ると、ゲンドウポーズをする鶴見部長に、聞こえないようサマになり過ぎですよと小さく呟いた。

「実は来週に月島主任が帰って来る」
「月島主任……ですか」

 階段からずっこけて尾?骨折った人の名は覚えている。忘れるわけがない。

「まあ、彼は私の右腕のような存在なんだが、来年には北海道支社に行くことになっている。月島が復帰した時に彼の仕事を引き継いでくれないだろうか?」
「………え?」

 また唐突だな鶴見部長……。

 主任ってことは尾形さんよりキャリアは上ってことでしょ?一体どんなことやってるんだろうと不安になる私に、まあ難しい事じゃないよと笑う鶴見部長。はいダウト!
 話も終わりオフィスに戻ってから、微妙な面持ちで自分の席に座ると宇佐美さんに何かあった顔してるよと言われる。何かあったよ。大ありだよ。大事件だよ…。

「月島主任って……普段のお仕事はなにされてたんですか」
「月島さん?えーっと、基本的には尾形と似たような感じだけど少し特殊っていうか」
「特殊?どういうことですか?」
「鶴見部長のスケジュール管理もしてたと思う」

 ………お世話係じゃん!それ秘書みたいなやつ!

 尾形さんですら日々大変そうなのに、プラス予定管理?お母さんじゃないんだから自分でやってよ…。

「まあ、鶴見部長はああ見えていつも予定ぎっちりだから、管理し切れないんだと思う。ほぼ付き添いのようなこともしてるし」
「確かに……華沢さんがそれっぽい感じだったような」
「そそ。でも月島主任も復帰するって話しだよ」
「……知ってます」

 椅子からずるずる滑り落ちるように、私は体をダラァとさせた。
 でも、それが仕事なら私だって頑張るしやらなきゃいけないだろうから、何とかしてやり切るつもりだ。拒否権なんて存在しないんだろうなあと天井に向かって溜息を吐いてると、額をべしっと叩かれ良い音がした。イタッと両手で額を抑えて犯人を見ると、なんとも素晴らしい笑顔で仕事しろと言う。

「……尾形さん、今日も胡散臭い笑顔が輝いてあだだだだっ」
「仕事は終わったのか?あ?」
「終わってないれす……!」

 次は頬を抓られて結構痛かった。容赦ないんだからと抓られた箇所を手で擦りながら、仕事の続きを始める。一部始終を見ていた宇佐美さんは笑いながら、これで付き合ってないんだもんねぇと指で笑い涙を拭った。
 優子ちゃんの席に座った尾形さんは、宇佐美これ計算間違ってたぞと書類を渡す。うえっと慌てて確認している宇佐美さんに、お前も笑ってないで仕事しろと言って、ニヤッと彼は悪戯な笑顔になった。

 今日も世界は平和です。……たぶん。