30

素敵なお髭のお爺さん

 家政婦は見た事件以来、私は前向きに考えるようになった。
 夜遅くに戻った私を、ずっと尾形さんは階段のところに座って待ってくれていた。素直に謝ることは出来なかったけど、ちゃんと「ただいま」と言えた。彼も「おかえり」と言って怒らないでいてくれた事に感謝しながら、その日の夜はぐっすりと寝た。





「これ、昨日の生姜焼きと、今日の朝に作った肉じゃがです」

 仕事終わりに、廊下ですれ違った尾形さんに持っていた紙袋を手渡す。
 普段はアパートで交わすやり取りを、仕事終わりにすることにした。仕事から帰って来る彼を待つ楽しみは無くなっちゃうけど、それでも自分から状況を変えなきゃいけないと思った。

「あぁ……ありがとう」

 歯切れの悪い返事をする彼に、どうしたんですか?と顔を覗き込むと何でもないと言われた。あまり気にしないように、昨日の会合はどうでしたかと聞いてみる。すると普通だったと答える彼に、普通ってどのレベルで言ってるんだろうと思わず笑ってしまった。

「じゃあ私は先に帰りますけど、尾形さんもほどほどにお仕事頑張って下さいね」
「お前じゃないんだ。根詰めてやらない」
「それもそうですね。それじゃまた明日!」
「なあ、
「はい?」

 尾形さんの表情は少し曇っていて、何度か口を開けるも言葉を発することはなく黙ったままだった。言葉を待っていた私は、彼を急かさないように「今、時間ありますか?」と聞いた。彼が頷くのを確認して、私は場所を変えて話しましょうといつもの休憩スペースに移動する。
 自販機でジュースを買って、尾形さんには缶コーヒーを渡した。

「じゃあ、まずは私からお話ししますね」
「なんだ?」
「昨日は覗きみたいなことしちゃって、すみませんでした」
「……どこまで見てた?」
「んー、まあ男女のあれこれを見ちゃいましたね」

 尾形さんは沈んだテンションでそうかと呟いて、ベンチに座ったまま膝の上に片肘を付けて前傾姿勢になると、その手で目元を覆った。

「あれは違うんだ」
「違うって、何がですか?」
「いや、あれは俺からしたんじゃなくて、されたというか…」

 なんだか尾形さんが、彼女でも無い私に言い訳する彼氏みたいな状況になっていて、ちょっと面白かった。焦っている尾形さんを見るのも珍しく、モテモテですねえと揶揄うように言うと、だからそうじゃないと尾形さんは溜息を吐くように言う。

「そもそも私たちは付き合ってないんですから」

ね、そう言って私が眉を下げて笑うと、彼は顔を少し此方に向けて指の隙間から黒目をちらつかせると、「あぁ」と小さく呟いた。

「また明日もオカズは会社で渡しますね。土日は夕方になったら玄関ドアに掛けておくんで忘れずに取って下さい」
「……インターホンは鳴らさないのか」
「まあ、そうですね。昨日みたいに微妙な空気になるのも嫌なので」
「だから、あいつとは何も―――――」

「尾形君!やっと見つけたわ」

 彼の名前を呼んで駆け寄ってきた華沢さんは私を見るとお疲れ様と言う。彼女はそのまま尾形さんに仕事の相談を始めた。内容は今の私には到底理解の及ばない範疇だった。
 二人に会釈をしてその場を去ると、エレベーターまで向かう。私は私のペースでいい。皆みたいに積極的にはなれないけど、尾形さんが私を必要だと言ってくれた時に、手を差し伸べれる存在でありたい。



 次の日の私は吹っ切れた気分で仕事に取り組んでいた。
 プレゼンテーション資料のコピーとホチキス留めを頼まれて、直ぐに取り掛かった。自分のデスクでやるには狭すぎたので、オフィス後ろにある空き部屋で作業をする。あと5分ぐらいで終わるかなぁと腕時計を眺めて作業ペースを上げてやっていると、優子ちゃんが顔を覗かせた。

「終わった?手伝おうか?」
「ん、もう直ぐで終わると思う。ホチキスの芯が無くなりそうかも」
「分かった。替え持ってくるね」
「ありがとー」

 優子ちゃんに芯を持ってきてもらってからは、二人で一緒に作業をした。おかげで時間以内に追われることが出来て一安心する。出来上がった資料に付箋で使用日を記入すると貼って、段ボールに詰めて指定された会議室まで移動させた。優子ちゃんにも運搬を手伝ってもらったけど、私が二倍の量を持っていたので「その細腕で良く持てるわね…」と驚かれる。茨城の祖母の家で畑仕事手伝ったりしてたし、腕っぷしは鍛えられてるのかもしれない。

 営業部に戻るとき、トイレに行きたいという優子ちゃんについて行くと、居酒屋で彼女とバトルした女子二人が化粧スペースで化粧直しをしていた。一応気付いてない振りをしながら横をスッと通り過ぎると、ねえ、と声を掛けれる。私じゃありませんようにと願って、鏡越しに見てみるとばっちりと目が合ってしまった。

「……なんですか?」

 トイレに入ろうとした優子ちゃんも、ピタッと動きを止めて私たちを見る。

「最近、尾形さんと仲が悪いんだってね。いい気味」
「華沢さんだっけ?いい感じみたいだし、あの二人の方がお似合いなんだから、アンタは引っ込んでなよ」

 ケラケラと笑いながら二人はマスカラを塗っている。まともに顔を見たのは今日が初めてだったけど、結構ケバいなオイ。

「悪いけどこの子に話しかけないでくれるかしら。前に言ったこと忘れたの?手を出したら絶対に許さないって」

 前に言ったって……一体なにがあったんですか。
 私の前にスッと出てきた優子ちゃんは、居酒屋騒動が再来するんじゃないかってくらい、女子二人を睨み付けていた。庇ってくれるのは嬉しいんだけど、またキャットファイトなるものが始まったら私一人で止めれるか自信がない。

「ねえ、優子ちゃん。私は大丈夫だから行こう」
「なんでちゃんが一方的に言われなきゃいけないのよ…!」

 トイレに行けなくてごめんと心の中で謝りながら、優子ちゃんの手を掴んでトイレを出た。急ぎ足でそこから離れると、私は優子ちゃんに振り向いてゴメンネと眉を下げて笑った。突然泣き出す彼女に、私は背中を擦るとありがとうと呟く。
 こんな私の為に、笑ったり、怒ったり、泣いたりしてくれる女の子は、優子ちゃんだけだから。

「なんで…ちゃんばっかり言われて……ッ、尾形さんムカつく!!」
「えぇっ?そっち!?」
「なになにー?尾形がムカつくの?」
「出た宇佐美!」
「ちょっと呼び捨てとかヒドイじゃん、野々村」

 以前の居酒屋騒動が、トイレで開催されるところだったと宇佐美さんに説明をする。彼はなるほどねえと苦笑して、野々村の事は俺に任せてくれていいからと言って、先にオフィスに戻るように言われた。まあ、彼がそうしたいというのなら私が出しゃばる必要はないと思い、優子ちゃんを預けると営業部に戻る。
 「随分と遅かったわね」そう言って心配して声を掛けてくれた華沢さんに、他の部署の人に声を掛けられて少しだけ手伝ってましたと、先程の事は暈して説明すると彼女もそうなのねと笑う。

「まだ仕事が残ってるので、急いでやりますね!」
「急がず焦らずよ?さんは頑張り過ぎだと思うから」
「……はい。50%ぐらいで頑張ります」
「フフ、なにそれ。まあいいわ、お疲れ様」
「はい!お疲れ様です」

 デスクに戻り閉じていたノーパソを開くと、一枚の付箋が挟まっていた。何だろうと手に取ってそれを読んでみると、電話番号らしき数字の羅列と最後に記されたオガタという名前に、思わず私は尾形さんの居る席を見る。すると、彼もこちらを見ていてジェスチャーで電話しろと言った。……えっ!?いつですか!?
 私もジェスチャーで腕時計を指差し、いつ電話したらいいんですかと伝えると、片手を広げてもう一本片手で指を追加して見せてきたので、それが夕方6時だと理解する。分かったと頷いてからは、残りの仕事をそれまでに仕上げることにした。

 定時になってオフィスを出ると、家に帰るには中途半端な時間になってしまうので、駅とは真逆の方向へ足を進めた。確かこっちの道に気になってたお店があるんだよねえ。

「……あった。うん、まだ営業してる」

 扉を開くとカランコロンと優しい鈴の音が鳴る。古風な佇まいを見せていた喫茶店が以前から気になっていて、いつも入るタイミングがなかった。いらっしゃいと白髪の老人、この店のマスターらしき人が優しく笑っていた。
 カウンターに座って、お勧めのコーヒーをお願いしますと注文する。男性にしては長く伸ばした髪の毛と顎髭が印象的で、でもそれが不思議と不潔に見えなかった。

「どうぞ、当店自慢のブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます。良い香りですね」

 豆から挽いてるのかな、香りが芳醇でインスタントでは出せないものだった。顔に掛かる髪の毛を耳に掛けるとコーヒーを一口飲んだ。とても美味しかったので素直に「美味しい」と言葉が漏れる。自然と顔が綻んで、マスターを見ると彼も優しい笑顔を向けてくれた。

「君はこの近くで働いてるのかな?」
「はい。直ぐ近くの会社に勤めてます。今日の仕事は終わったんですけど、これから会う人との待ち合わせ時間が少し余っちゃって」
「そうかい。お疲れ様、ゆっくりしていくと良い」

 実は私も会社員をしているんだがね、とマスターが突然話し始めたので、喫茶店しながらですか?と聞き返す。どうやらこの店は趣味でやっているらしく、定休日もバラバラで営業時間も適当だと言う。
 年齢はどうであれ、趣味や娯楽はやれる時にやった方がいい。まさに今がそうなのだろう。

 時間もそこそこに、電話をする時間が近づいていたので会計を済ませると、また来ますねとお店を出ると駅前まで向かった。会社からも遠くないし、いざとなれば直ぐに電車使って帰れる。
 スマホを握り締めて、よし!と意気込んで既に登録した尾形さんの番号に電話すると、3コール目で出た。さすが3コール厳守が身についてる。

「もしもし、尾形さん?です」
『今どこにいる?』
「まだ会社近くの駅前です」
『分かった。今から行く』
「えっと、まだ会社なんですか?」

 尾形さんが通話を切る方が早かったので、返事は聞けず終いだった。
 時計台の前で待っていると、私に駆け寄って来る尾形さんを見付けて軽く手を上げる。待たせたなと肩で息をする彼に、大丈夫ですよと微笑んだ。

「何か私に用事でしたか?」
「用事って訳じゃないんだが、たまには食事でもどうかと思ってな」
「あー……オカズのお礼ってことですね」
「それもあるんだが、今日は何となく俺がそうしたかった」

 尾形さんは視線を逸らすと指先で髭の辺りを掻いている。最近は尾形さんと話す機会も減ってたし、ちょっと照れ臭いんだろうと、そういうことにして二人で何食べましょうかと肩を並べて歩き出す。

「もし、お嬢さん」
「えっ?」

 肩をポンポンと叩かれ、後ろを振り向けば先程の喫茶店のマスターの姿があった。どうして此処に、と私が彼を見ているとスッと目の前に手の平を見せる。その上には私が今日付けていた片耳のピアスが乗っていた。

「さっき店を掃除していたら落ちていたから、もしかしてと思って探したんだよ」
「ありがとうございます……えっと、なんとお礼を言ったらいいか、」
「……おい、なんでお前がこの人と知り合いなんだよ」
「え…?」

 尾形さんは眉間に皺を寄せて険しい表情を見せる。しかし、その視線はマスターに向いていて、よぉ爺さんと挨拶した。

「……会合以来だな、若造」
「アンタには世話になったぜ、いろんな意味で」
「えっと……二人は知り合いですか?」

 すると、マスターは私にスッと一枚の紙を渡す。それを受け取って見てみると『土方グループ株式会社取締役社長 土方歳三』と綺麗に印刷された名刺だった。

「………………」
「すまないねお嬢さん。騙すつもりは無かったんだ」
「いえ………あの、コーヒー美味しかった、です」

 私と土方さんの会話を聞きながら怪訝そうな表情を向ける尾形さんに対して、私もこの状況が読めないと目で訴えるように彼を見上げたのだった。