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もう、彼は私を見ていない

 仕事も慣れてきた頃には、入社して一ヵ月が過ぎようとしていた。

 次第に仕事の量も出来ることも増えていく。午前中の仕事を終えた私が一人食堂で唐揚げを貪っていると、鶴見部長が目の前の空席に座った。

「お疲れ様です、鶴見部長」
「あぁお疲れ、入社してから一ヵ月経つが何か困ったことはないだろうか」
「困った事、ですか…?」

 特にそんなものは無いので、首を横に振っていいえと答える。私の返事を聞いて安心したのか、笑って同じ唐揚げ定食を食べ始める彼を見詰めた。結構がっつり食べる人なんだなあと観察していると、なにかなと此方を見てもいない鶴見部長が私に声を掛ける。
 慌てて美味しそうな唐揚げだったのでつい!と適当な嘘を吐いたら、じゃあお裾分けだと言って彼は私の皿に唐揚げを一つ置いた。
 あ、美味しそう…………ってそうじゃないから!

「あ、あのこれ!お返しします…!」
「いや、いいんだ。君が食べ給え。私は君の働きぶりに感心しているんだよ、君」
「……あ、いえ…ありがとうございます」

 鶴見部長から頂いた唐揚げを一口で食べると、出来立てだったので流石に熱かった。はふはふさせながら食べていると、来月に入ったら新入社員の歓迎会があるんだがと言われ、嗚呼よくある行事ですねと苦笑した。

「君の事は本当に部下たちが喜んでいたよ。私も君が営業部を選んでくれた事に感謝しているし、何より鼻が高い」
「いえ、私はまだ皆さんに教わることがいっぱいある身ですので……あはは」
「そういう謙遜する姿も好感されているよ」

 まあ、皆に認めてもらえるのは正直嬉しい話なので、素直にありがとうございますと言った。
 食事を終えたお盆を下げるタイミングを見計らい、それじゃあ失礼しますと立ち上がると鶴見部長が本題はこれからなんだがと、既にお盆に手を掛けている私を見上げる。その体勢のままゆっくり腰を下ろして、なんでしょうかといい加減解放されたい気持ちを顔に出さないように彼を見る。

「今は営業事務をしているが、いずれ商談も出来るようになってもらいたい」
「は、い……えぇっ!?」

 無理無理と顔の前で両手を左右にブンブン振っていると、そんなに構えないでくれよと眉を下げて苦笑された。

「だって私がそんな…尾形さんみたいなことをするってことですよね…?」
「あぁ気付いていたのか。じゃあ話は早い」
「早くないです!本当に私には務まらない話ですッ!」
「部下として上司の私の声が聞けないと?」
「ひっ!そうじゃないですけど、周りは私の事を過大評価し過ぎな所があると思うんです…!」
「それは君が自分の実力を知らないからだ。謙遜する気持ちは大切だが、もう少し自身のことを褒めてやってもいいんじゃないだろうか」

 それじゃあ頑張ろうね。笑顔で言って鶴見部長はお盆を持って厨房に食器を下げると、食堂から去って行った。唖然としていた私は言葉が出てこない。そんなハイスペ人間じゃないのに……どうしよう……。

 オフィスに戻ると、宇佐美さんに午後からの作業指示をしてくれる。

 忘れないようにメモをして、午後の業務には少し早いが取引先のファイルを私が入社時にお世話になった例の一室から持ってくると、過去の商談内容を確認しながら請求書や、メールで近況確認をする内容を送るための準備に取り掛かった。

「さっき鶴見部長と居たよね」
「……宇佐美さん、見てたなら声を掛けてくださいよ」
「えー?だって真剣な話をしてる感じだったから、流石に邪魔は出来なかったよ」

 そうだ。私を第二の尾形さんにしようとする鶴見部長を、何とかしなきゃいけないんだった。でも今さら仕事でわざとミスすることなんて万が一あってもやっちゃいけないことだし、作業ペースを遅らせると周りに迷惑だって掛かる。いくら何でもドジっ子は披露出来ないし私がやっても腹立つだけだ。
 野々村さんが昼休憩から戻ってくると、もう仕事始めてんの?と何故か引かれた。何か手にしてないと落ち着かないと顔だけ向けて手を動かし続けていると、お祓い行く?と真顔で返された。

「悪魔に憑りつかれてるんですよ」

 鶴見部長っていう悪魔に。

「そりゃ大変ね。何となく状況察したけど、ほどほどに手は抜かなきゃ息が詰まるだけよ」
「ご尤も過ぎて返すお言葉が見つかりません」

 確かに彼女の言うとおりだ。どこかでガス抜きをしなきゃ絶対に頭痛くなる。

 尾形さんもオフィスに戻ってきて、新人の男性社員と一緒だった。午前中は出てたみたいだし、また外回りしてたのかな。それにしても、なんで尾形プロはあんなに涼しい顔して仕事してられるんだろう。どうやってガス抜きしてるのかな……。

「ねえちゃん」
「はい、なんですか宇佐美さん」
「口の端にご飯粒ついたままだよ」
「ぎゃああっ!」

 口元を抑えて恥ずかしさで顔を赤くしていると、周りで聞いていた先輩達も笑っていた。なんでもっと早く言ってくれなかったんだ恥ずかし過ぎるじゃないですか!口のご飯粒をペロッと口に入れると、今の事は忘れてくださいと両手で顔を隠して天井を仰いだ。



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 が入社して、営業部が一段と明るくなった。

 周りの同僚たちも彼女の働きぶりに感心しながら、可愛がっている。鶴見部長の観察眼は普通じゃないと思っていたが、ここまでだったのかと尾形も驚く一方、自分と同じ外回りと事務を任されないか心配になってた。
 去年の終わりから異動してきた華沢も、初日から彼女のことを評価しており今後が期待出来ると言っていた。

「なんだか賑やかになったわね」
「そうか?騒がしくなったの間違いだと思うぞ」
「もう…そんなこと言って、尾形君が一番嬉しいくせに」

 彼女の言うことは強ち間違っていないので、尾形は肯定も否定もせず返事はしなかった。

「来月から外回りも始まるみたいだし私が一緒に回ると思うけど、彼女ならあっという間に一件貰ってきちゃいそう」
「ハハ、どうだろうな。そんな簡単に取ってこられちゃ俺たちの立つ瀬がないだろ」
「伸びる子はどんどん伸ばしてあげなきゃ。それが私たち先輩の役目だと思うわよ」

 それじゃ私も外回りしてくるからと言って立ち上がった華沢は、椅子に掛けていたジャケットを手に取りもう一度尾形を見る。その視線に気付いた彼は、どうした?と不思議そうな表情をしていた。

「ねえ尾形君、私あの人と別れたの」
「……そうか」
「今日、一緒に飲みに行かない?」
「じゃあ、今後の為にあいつらも呼ぶか」

 尾形は視線をや宇佐美、野々村の三人に向けた。
 キョトンとして彼を見下ろしていた華沢は笑うと、相変わらずねと呟いた。

「その空気読めない尾形君だから、一緒に居て楽しかったのかも」
「そうだな。俺は空気が読めない。だからお前と二人で今後も飲みに行くことはない」
「……分かったわ。それじゃ、あの子たちも呼びましょうか」

 先程までの寂し気な瞳をしていた彼女も、尾形の態度を見て思う。久しぶりに再会して、支社で働いていた時に見せていた不愛想な表情も、今や柔らかい表情を見せるようになった。それはあの三人を見ているとき、そしてと話しているとき。

 自分が変わったように、彼もまた変わってしまったのだと少しだけ寂しくなる。今見せる尾形の笑顔をあの時に見たかったと、華沢はそう思った。

 会社を出て取引先に向かう中、華沢は「また最初から頑張ろうかしら」と呟き苦笑すると空を見上げた。