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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 早朝、私は外の様子を見て台風が通り過ぎたのだと分かり、眠い目を擦りながら早起きの祖母に挨拶をする。畑は無事だったと嬉しそうに報告した祖母に、良かったねぇと朝のコーヒーを作りながら一緒に喜んだ。
 これも尾形さんのおかげだと、何かお礼をしたいと言うのでそれは私が東京に帰ったらしておくと言い、噂の張本人が居間に姿を見せるとおはようございますと笑顔で挨拶をした。

「畑、無事みたいだな」
「はい、お蔭様で。祖母も喜んでました」
「そりゃよかった」

 早速畑に出向いた祖母を、縁側の窓ガラスから眺めて微笑む。

 この家に食パンは無いので朝食は味噌汁と白米、そして焼き魚という日本食定番のメニューとなっていた。

「これもお前が作ったやつか」
「あ、分かります?」
「あぁ」

 味噌汁を飲んでそう言った尾形さんに、私が胃袋を掴んじゃいましたと冗談を言う。きっと「何言ってんだ」と否定してくれると思っていた。
 しかし、彼はそれを否定もせず、たった一言、「そうだな」と静かに頷いた。ポカンとして見る私の視線に、彼はどうしたと怪訝そうな表情で言うと視線をそのまま食卓に戻す。
 どうしよう……今日の尾形さん、やけに素直で可愛い。いや、違う怖い。

「あの……そこは否定する所ですよ」
「なんで否定する必要があるんだ?」
「……だ、だって」

 恥ずかしさでその先が言えなくて、思わず視線を逸らしてしまった。

 絶対に変に思われた。
 最初から私は変だったけど、そういう感じじゃないくて…!

 興奮気味の脳内に、変な期待をするんじゃないと心の中で叱咤すると、持っていた茶碗の白米を口に流し込んだ。


 出掛ける時間が近付き、畑で作業をする祖母に「少し出てくるね」と言えば「デートかい。楽しんでおいで」と揶揄われた。真っ赤になる顔の熱を逃がすように、ひとり両手でパタパタと仰いでいると、尾形さんが車のエンジンを掛けて待っていた。

 お待たせしましたと助手席に乗って、私は彼の横顔が憂いを帯びていることに気付く。彼は何処か虚ろな表情で「あぁ」と短く返事をするだけで、道中も私の話をただ頷いて聞いてるだけだった。
 そんな彼が少し心配になり、途中景色の良い駐車場で一旦車から降りて、自販機でジュースを買うと休憩しましょうと、備え付けのベンチに二人で座った。

「いつも運転ありがとうございます」
「…あぁ、気にするな」
「私も免許取ろうかなぁ。次から此処まで一人で来れるし」
「次、また婆ちゃんの家に行く時は俺も誘え。どうせ同じ茨城だし問題ないだろ」

 彼の言葉にドキリとするものの、きっとその言葉に意味はないのだろう。
 だけど、誰かと帰る場所が同じというのも悪くない。昨日だって不安でいっぱいだった私を、大丈夫だからと落ち着かせてくれたのは尾形さんだった。

 景色を眺めながら一息吐いていると、私のスマホが鳴った。
 液晶を見ると会社からだ。私はその瞬間、しまったと顔を蒼白させる。昨日の内に三日間休みを入れる予定でいたのだが、すっかり連絡するのを忘れていた。
 急いで電話に出ると、激おこぷんぷん丸のマミちゃんが「アンタ今どこに居るんだい!?」と音が割れるぐらいの声量で叫んだ。隣に座っていた尾形さんも、流石にびくっと肩を震わせていた。
 「すみません」と席を外そうとしたとき、尾形さんにスマホを奪われてしまった。

「俺だ、尾形だ。を三日間ほど休みにしてやってほしい。……ああ、悪いな」

 勝手に話を進めて通話を切った尾形さんは、昨日連絡入れなかったのかと呆れた口調で言う。やっぱり気付いちゃいましたよねえ…。口元を引き攣らせる私は言い訳をするように、しようとして忘れていた事を素直に明かした。

「ほんっとうにすみませんでした…!」
「俺はいいが、お前が今後どう言われるか知らんぞ」
「大丈夫です。自分勝手な私が招いた事なんで」

 試験も受けなかったし、結果的に私はクビなのだ。何を言われても、私は会社を辞めなければならない。最後は散々になっちゃったけど諦める外ないだろう。

 それに、こうやって尾形さんが優しくしてくれるのも今日までかもしれない。私がクビになったら、折角就職先紹介してやったのにって呆れて声もかけてくれなくなるかもしれないし。
 だから、私の中で色々と覚悟は決まっていた。

 また就職先を探さないとなあ。
 心の中で独り言つと、飲み終わったアルミ缶をゴミ箱に投げ入れた。ガコンッと良い音を立てて入ったそれを見て、尾形さんも同じように投げ入れると立ち上がり、そろそろ行くかと腰を上げて先に車へ戻って行った。
 私もその後を追って助手席に乗ると、少しだけ顔色の良くなった尾形さんを横目に、良かったと安心するのだった。

 一度町を通り、そしてまた山道を走ること一時間。着いた場所は村という感じで、周りには私の祖母の家のように山と田畑が広がっていた。
 そして一軒の家の前で車を停めると、そこが尾形さんの育った祖父母の家だと教えてくれた。今はもう誰も住んでいない家の中に二人で入ると、やっぱり埃は溜まっていて長い間、誰も居なかった事を物語っていた。

「俺の母は、父の愛人だったんだ。俺が生まれて直ぐに実家に戻った母は、祖父母と一緒に俺を育ててくれた。お前と一緒で俺も婆ちゃん子だった」

 ツゥと窓縁の埃を指で撫でるように線を付けながら歩いていると、尾形さんがこの家での思い出を話し始めた。

「母は父の好きだと言ったアンコウ鍋を、作っては帰りを待った。でもどれだけ待っても父は母の前に現れることは無かった。祖父の猟銃を使って初めて鳥を仕留めて、それを持ち帰って母に見せても、見向きもせずアンコウ鍋を作り続けるんだ。その時に、母が狂ってしまったんだと分かった」

 彼の過去は、私の想像以上に辛いものだった。
 両親からの愛情も知らず、今まで生きてきたと言う彼の背中はとても寂しく悲しそうに見えた。彼を抱きしめたいと思っても、私にその権利があるのだろうかと、指先だけがぴくりと動く。
 掛ける言葉も見つからなくて、ただその場で静かに流れた涙が止められなかった。

「けど、俺はそんな両親を憎めなかった。憎むという感情も分からなかったのかもしれんが、それでもいいやと思って今まで生きてきた」
「尾形さ、ん…っ」
「……泣いてるのか?」

 ただ彼の名前を呼ぶことしか出来なくて、私の顔を見た尾形さんは何故か不思議そうな顔をして私に歩み寄った。

「悪い…つまらん話しをしたな」
「違うんです。そうじゃないんです!私は尾形さんの事を知って…、知れて、本当に良かったと思いました」
「……良かった、のか」
「はい…、私はどんなことでも良いから、尾形さんの話しを聞きたいと思っていたんです。だから一緒に茨城に来る事が出来て良かったです」

 すっと伸ばされた彼の手が、私の目元に触れる。
 私の涙を親指で拭った尾形さんが、「そうか」と呟き口元に薄い笑みを浮かべる。眉間に皺寄せて、苦しそうに、それでも幸せそうに笑う彼のその笑顔に、見入っていた私も自然と涙が止まっていた。

「婆ちゃんちに戻ったら、荷物を纏めて東京に帰るか」
「はい、帰りましょう。私たちの家に」

 尾形さんの家から出ると、彼の車に乗って祖母の家に戻った。帰りの車内では、尾形さんは普段の顔に戻っていて、会社に戻ったら怒られそうだなと二人で苦笑した。

 そして予想通り、翌日会社に出勤した私はマミちゃんに大説教を食らった。最後に、出掛ける時は行き先と日程をちゃんと報告しな!と言って苦笑している彼女を見て、偉大なるマミちゃんの愛情を感じた。