10虚空の闇に消える花ここ最近、良く鶴見部長が食堂に顔を出すようになったと、そうオバチャン達に言われて私は一週間前のことを思い出す。鶴見部長が私に、食堂スタッフから営業部の正社員として部下にしたいと言ったのだ。初めて会った時にもそれっぽい誘いはあったんだけど、最初は彼の冗談かと思っていた。 でも改めて二人で話をしようと言われて、それについて話題を持ち出された時は、流石に本気だと気付いた。でもさ、私思うんだよねぇ……誘う相手間違ってないかな。 「はあ……」 「どうしたんだい、元気無いねえ?」 「すみません。最近ちょっと悩み事が出来ちゃって」 内容まで言えなかった私は、良くある悩みですからとその場を誤魔化そうしたけど、流石オバチャンパワー、マミちゃんの「私に相談してみな!」という気迫に押されて、ついマミちゃんに教えてしまった。 まあ秘密にしてって言われた訳じゃなかったし、いいよね…。 「…そうかい。そんなことが」 「はい。でも私にこの食堂を紹介してくれたのは尾形さんですし、スタッフの皆さんも良くしてくれるので、このままでも良いんじゃないかと思ってるんですよね」 「私は別にいいと思うけどねえ。アンタのやりたいようにやらなきゃ、人生なんてあっという間だよ」 意外とあっさりした態度で言う彼女に、私が目をパチパチさせていると、なんだいその顔はと肩パンをした。やっぱり痛いよそれ。 「まだアンタは見習いみたいなもんだから、決めるなら早い方がいい。なぁに、みんなの味方さ」 「でも、それじゃあ私が抜けた穴は……」 「気にしなくていい。どちらを選ぶにしろ、後悔のないようにおよしよ」 何なんだこの職場……!いい人達ばかりで泣きそうだよ! 「まったく情けない顔して。そんなんじゃ今日の配膳任せられないよ!」 「うぅ、マミちゃん好き!大好き!」 「できればイイ男に言われたかったよ」 彼女の明るさに感謝して、頑張って今日一日の配膳係と食器洗いを終えることが出来た。あと三日後に控えた花火大会が楽しみ過ぎてテンションが更に上がっていた私は、帰宅してから有り余る体力をギリギリまで使い果たすように部屋の掃除をしまくった。 花火大会当日、朝から絶好調の私は洗面台の鏡で自分の顔を見ながら、今日の夕方のことを考えて、フフと思わず笑みが零れる。彼にとってはただのお出かけかもしれないけど、私にとっては尾形さんとデートなのだ。 ゴミ出しを終わらせ、仕事に行く支度をして玄関に向かうと、いつもの作詞作曲自分の鼻歌を奏でながらドアを開ければ、ゴミ出しを終えて戻ってくる尾形さんと出会った。 「おはようございまーす!」 「おはよう。テンション高いな」 「えへへ、久しぶりの花火なので嬉しくてつい」 「フ、子供かよ」 何言われても怒る気もしなくて、行ってきますと挨拶して会社に向かった。朝から尾形さんと会えたし、幸せいっぱいだ。 出勤した私は厨房に入り、オバチャン達の指示通りに仕事を進めて行く。すると、今日は花火大会だねえと誰かが言った。 「ちゃんは行くのかい?」 「はい、行きますよ!」 「そりゃ楽しみだろうね。じゃあ今日は早く上がりなよ」 「えっ、いやそれは皆に悪いですよ!」 「気にしなくていい。若い子は元気に外で遊ぶのが一番だよ」 それお婆ちゃんが孫に言うやつだよオバチャン。 皆の気持ちに感謝し早く上がらせて貰えることになった私は、壁掛け時計を見てまだ午前中だというのに、わくわくしていた。 昼頃には配膳係の番号呼びが始まり、いつもの大声で呼び配膳しまくる。すると、元気だねえと声を掛けてきたのは宇佐美さんだった。今日は珍しく一人だなぁと思っていると、その背後から尾形さんがひょっこり顔を出した。 「ひえっ…!尾形さん居たんですか」 「居ちゃ悪いか?」 「そんなこと言ってないじゃないですか」 「尾形さぁーーん!」 どこからか聞こえた可愛らしい声に、自然と視線はそちらに向く。 チッと舌打ちした尾形さんは明らかに不機嫌な顔になり、彼が何とか平常心を保とうとした結果の真顔になっていることに、大丈夫だろうかと心配になった。 彼女は尾形さんに駆け寄ると、私も一緒させて貰ってもいいですかぁ?とおねだり上手な上目遣いで、彼の腕にぴっとりと引っ付いていた。呆然とそれを見ていた私に、宇佐美さんがこっそり「彼女、尾形にすげえ絡んでくんの」と教えてくれた。 それってつまり……彼女は尾形さんにラブなのでは。 券売機に連行されてしまった尾形さんを見詰めたまま私が突っ立っていると、横からマミちゃんに次の料理の配膳を頼まれ意識が戻る。駄目だ、気にしてる場合じゃない。今は仕事をしなきゃ、そう思って意識をなるべく仕事に向けるもやはり気になるのは彼の事だった。 戻ってきた二人の顔を見たら、明らかに尾形さんの米神には青筋が薄っすら浮かんでいた。 ひぃっ、どうか私に当たりませんように…! 「これお願いしまぁーす」 「はい、ありがとうございます。出来たらお呼びしますので」 「おい、離れろ。暑苦しい」 「えーいいじゃないですかぁ別に」 一応は嫌がる素振りを見せる尾形さんだが、彼女の強引さに押し負けてる気がする。宇佐美さんがいるテーブルに向かった二人は、結局距離が近いまま。 先に食事を終えた宇佐美さんがお盆を戻しに来ると、私に手招きをしする。何だろうと彼に近付くと、またこっそりと宇佐美さんが私に話し始めた。 「あの子、ちょっと前に入った新入社員なんだけど、尾形が教育係してんだよね。んで見て分かると思うんだけど、尾形にべったり。今日なんて花火大会一緒に行こうってずーっと誘ってんだぜ。尾形は断ってるみたいだけどさ」 「はぁ…そうですか…」 「えっ、なんか反応薄くない?」 尾形の事好きなんでしょ?と当たり前のように聞いてくる宇佐美さんに、この人どこまで鋭いんだとツッコミたくなる。 「た、確かに好きですけど……こうやって見てると、二人とも美男美女でお似合いだし……」 「それ尾形が聞いたら気にするだろうなあ」 「え?」 なんで尾形さんが気にする必要があるんだろう。 もう訳分かんなくて、仕事戻りますからね!と半ば強制的に会話を終わらせて皿洗いに戻る。そんな私を見て、宇佐美さんは私に聞こえる声量で「俺はちゃんのほうが良いと思う!」と言った。 何てこと言ってるんだ宇佐美さん…!周りのオバチャン達は良く分かってないので不思議そうにしてたけど、私だってこのまま傍観者になるつもりはないと今日の花火大会のことだけを考えた。 その日の夕方、残業になったという彼の申し訳なさそうな声に、私は明るく振舞って大丈夫だからと答えるしかなかった。 ――――――――――――― 新入社員の野々村優子を見下ろし、やってくれたなと尾形が溜息を漏らす。まさかの残業は自分のミスではなく、彼の後輩である優子のものだった。 「おい、どうやったらこんな風になるんだ」 説教をしても仕方ないのだが、今日のとの約束を考えると苛立ちをどこにぶつければいいのかと、長々と彼女に説教をしてしまっている。早く帰りたい一方、腹は立つ。 今日なんか彼女の前であんなにベタベタしやがってと思い出し舌打ちをすると、修正箇所を指示してやり直させる。このまま置いて帰ってもいいのだが、結局責任は自分に回ってくるので今日中に終わらせたかった。 「すみません……。あの、これなんですけど」 「あ?」 明らかに不機嫌な態度の尾形に、彼女も流石に申し訳ない気持ちになる。最初はちょっとミスして残業デートという計画だったのだが、尾形がここまで怒りを露わにしたので泣きたい気持ちになっていた。 怒っていても何だかんだ甲斐甲斐しく世話をしてしまうのだから、優子も次第に先程までの申し訳ない気持ちよりも、もっとこの人に近付きたいという気持ちが募っていく。 すると、ドォンドォンと花火が打ちあがる音がして、オフィスの窓から見える花火に二人の視線は向く。 「ここからでも充分綺麗に見えますね、フフ」 「笑ってる場合じゃないだろ。さっさとやれ」 「はぁーい」 まったく反省してない彼女の態度に、尾形は胸ポケットの煙草を確認すると一本吸ってくると言って喫煙所に移動した。 一服しながらパイプ椅子に腰を掛けて思い出すのはのことだった。 夕方にした電話越しでは明るく振舞っていた彼女が、また厭に癪に障った。なんでそんな風に明るく振舞えるのか、尾形には理解出来ない。普通なら女ってこの場合は怒ったりするもんじゃねーのか?その方が良いと思ってしまうのは、本当に彼女を傷つけてしまった事への戸惑いの感情をどうすればいいのか分からないからだ。 こんなに自分の気持ちを乱してくるのは彼女だけだった。 オフィスに戻ると、優子が一生懸命書類の訂正をしている姿。ここにいるのがなら、幾分か自分の気持ちを落ち着けることは出来たのだろうか。 ビルから見える花火は、酷く美しく、尾形の瞳には悲しく映っていた。 |