06

名前のない感情

 今では社員食堂の看板娘とまで言われるようになった私は、今日も今日とて声を張り上げて頑張っている。そしていつも通りマミちゃんの肩パンは痛いのだ。

 休憩時間になり、パイプ椅子に座って参考書を広げていると、分からない所があれば聞いとくれよ、とオバチャン達に言われ胸がキュンっとなった。どうなってんのこの職場…優しい人しか存在しない世界になってる。

「もう少しで季節限定のメニューを作る企画があるんだけどねえ、は食べてみたいものはあるかい?」
「それは冬からですか?」
「あぁ、そうだよ。去年は何だったかなぁ」

 既に去年のことを忘れているマミちゃんに他のオバチャン達が「もつ鍋定食だよ忘れたのかい」と笑っていた。聞いて思い出したのか、そうそれだよと笑い私に肩パンをする。もうこの流れが普通なっている私の肩は、充分なほど彼女の手によって凝りが解された気がする。

「他にも各都道府県の名物料理をやったんだが、即完売だったよ」
「へえ、それは楽しそうですね」

 この季節限定メニューは、リクエストを言ったもの勝ちらしい。じゃあ私も少なからずリクエストしたら候補に貰えるってことなのかな。
 まあその前に、私の調理師としての試験が先にやってくる。急がなくてもいいと言ってくれたマミちゃんや他のオバチャン達に感謝しつつ、それでも早く仲間として一緒に頑張りたいので試験日まで猛勉強に励む日々が続いていた。
 その所為か、若干寝不足ではあるがいつもの気合と根性で乗り切ってるので大丈夫だろう。

 休憩時間も終わり、明日の仕込みが始まるので私は大人しく皿洗いをすることになった。
 今では徐々に食堂利用者の社員の人達とも打ち解けていき、尾形さんの同期である宇佐美さんにも話し掛けてもらえるようになった。まあ、八割以上が憧れの上司"鶴見部長"の話しを聞かされるのだが、私はスマホの写真を見せてもらっただけで、ご本人様とお会いしたことが無い。
 洗い終えた食器を拭いて指定の場所に戻すと、私は壁掛け時計の短針が4を指していたので、もうこんな時間かと後ろ首の凝りを手で解すと、今日の特売は何だったかなと帰りに寄るつもりのスーパーのチラシを思い出していた。
 マミちゃんに終わった事の報告をした後は、スタッフルームで着替えを済ませて皆に挨拶すると裏口から出た。

「終わったのか?」

 ぼーっとしていた所為で、尾形さんに声を掛けられるまで、そこに彼が居たことに気付かなかった。

「…あれ、なんで尾形さんが此処に?」
「今日、少し疲れた顔してたから様子を見にきた」

 そんなに疲れた顔してたのかな…。仕事中は気を付けなきゃ。

「んー、気合と根性で乗り切ってるんで大丈夫です」
「何がどう大丈夫なんだ。根性論だけで何とかなる仕事なんてねーだろ」

 まあご尤もなのだが、今さらどうこう出来るものじゃないと思った。確かに10代の時みたいに、有り余る程の体力がある訳じゃない。自分なりに体力はセーブして頑張れてるはずなのだ。チクチクと小うるさくお説教をする尾形さんに、今日は何が食べたいですか?と話を遮るように聞いた。

「…は?」
「え?だから今日のオカズのリクエストですよ」
「お前はもう帰ったら寝ろ。自分の分の飯だけ食ってさっさと寝ろ」

 ぐいっと近付けられた顔に、反射的に体が仰け反る。な、なんでこんな近付くの…。すると、両目の下を親指でぐいっと軽く下げられた。

「やっぱり寝不足だな。目が充血してるぜ」
「うぅ…尾形さんが医者の真似事する…!」
「いいから、今日だけでも俺の言う事を聞いてくれ」

 目元を手で覆って上を向いた尾形さんは、はあと溜息を吐いていた。彼の態度を見て、本当に心配されてるんだと知りこちらが折れる事にした。
 分かりましたと返事をエレベーターに乗り込むと、何故か尾形さんも乗り込んだ。確か彼のオフィスは上のはずなのに、下に降りて何か用事があるのだろうか。チラッと隣を見上げて確認すると、逆に尾形さんが私を見下ろしていて目が合い思わずぎょっとした。

「……お前、本当に帰るか?」
「え、なんですか。超信用出来ないって顔してますよ」
「今のお前は素直じゃないからな」

 この短い期間で尾形さんは私の性格を見抜いてる気がする……。

 結局、会社の外まで付き添われた私は、尾形さんが捕まえたタクシーに無理矢理押し込まれてしまった。仕事疲れで抵抗する力もない体が車内にすっぽりと入り込むと、尾形さんがアパートの住所を運転手に伝えてお金を渡していた。お金までちゃっかり先に払っちゃってるし…。
 ぼーっとしながら彼を見ていた私は、もう好きにして下さいと目を閉じた。

 アパートに戻ってからは、段々と重くなる足取りに躓きながら玄関扉を開くと、ふらりと視界が揺れる。あっ、倒れると思った時には遅く遠退く意識は次第に眠気に変わってそっと目蓋が落ちた。



――――――――――――



 今日は朝からぼーっとしていたの様子が気になり、彼女の仕事終わりを見計らってスタッフルームの扉の前で尾形は待っていた。案の定、ドアを開けて出てきた彼女は尾形の目を見て一瞬ボケーっと眺めていると「尾形さんだ」と呟く。視界に入れてからの反応が普段より明らかに遅い。
 これはマズイなと思った尾形は、彼女を無理矢理タクシーに乗せてアパートまで帰らせたが、その後が気になって仕方なかった。今までは自分に関わってくる人に対して他人事だと知らん顔をしていることが多かった尾形だったが、いつの間にか心の半分以上を彼女が占め、彼女中心の思考になっている。この感情は一体何なのか未だに理解出来ないが、きっと胸の辺りが苦しくなるのは、彼女が原因だと何となく分かった。

「尾形、なぁんか落ち着かないね」
「……別に」

 ちゃんと帰って寝てるだろうか。尾形は彼女の母親にでもなった気分だった。

「ふーん?…あ、それ俺がやっておこうか?」
「……頼む。埋め合わせは今度する」
「ハイハーイ」

 持つべきものは同期の同僚だと思いながら、宇佐美に書類を渡すと尾形はスーツジャケットと鞄を引っ掴んでオフィスを急ぎ足で出た。すれ違う何人かの女性社員に呼び止められそうになるが、聞こえてない振りをしてさっさとエレベーターに乗り込んで、地下駐車場に向かう。
 こんな時ぐらい、携帯番号でも交換しておくべきだったかと道中の車内で考える。帰宅ラッシュの渋滞に何度か嵌ったが何とかアパートに戻ることが出来た。

 自分の部屋に入る前に、彼女の部屋のインターホンを鳴らす。反応がないので、ちゃんと寝たのだろうか。一応ドアノブを捻ってみたが、思った以上に簡単に開いたそれに尾形は目を見開き、入るぞと言ってからドアを開けた。

 視界に入ったのは、玄関を直ぐ上がった所で床に倒れているの姿だった。

「…っ、おい!しっかりしろ!」
「…………むにゃ、尾形…さん…?」

 意識があることに安堵し、上半身を抱き上げてその場で額に手を当てる。熱はないようなので、疲労で倒れたものだと理解した。大丈夫かと声を掛ければ、帰宅して直ぐに意識を手放したという彼女の証言に、まさかこんな所で寝てしまったのかと呆れ果てた。

「立てるか?」
「…ん、なんと、か」

 ふらつきながら立ち上がろうとする彼女の腰回りに手を入れて支えるが、明らかに足取りが覚束無い。仕方ないと胸の前で抱き上げる尾形は、所謂お姫様抱っこをした。意識が既に夢の中にいきそうなは、だらんと体の力を抜いて彼の胸に体を預けると、鼻先をシャツに摺り寄せた。

「……へへ、尾形さんの匂いがする」
「寝惚けてんのか…」

 寝惚けているにしても、これはいろんな意味でマズイだろうと、彼女の寝室に入りベッドに転がした。無造作に転がされたが寝苦しそうにしているので、シャツのボタンを一つだけ開けてやると、呼吸も楽になって寝返りを打っていた。
 尾形はその場でベッドに背を預けるように床に胡坐をかいて座ると、天井を眺めた後、視線を床に落とした。

「はあ……疲れた。つーかこの女と居るとマジで疲れるな」

 やっぱり苦しくなる胸の理由が分からなくて、ただ疲れたと口にし、それでも嫌いになれない彼女の穏やかな寝顔を横目にフと笑みを零した。