03

棚から牡丹餅

 また私は一つやらかしてしまった。

 天気予報のお姉さんが今日は午後から雨だと言っていたのに、折り畳み傘を鞄に入れ忘れ、面接帰り豪雨に見舞われずぶ濡れとなった。なんとかアパートに戻れば雨に打たれた体も冷えてくしゃみを連発する始末。なんてこった…。
 直ぐに湯船を溜めると、濡れた衣類は洗濯籠に放り投げて浴室に駆け込んだ。

「ふあぁ……やっぱり日本人は風呂だよねえ」

 極楽極楽と言いながら温まっていると、隣の部屋のドアが慌ただしく閉まる音が聞こえた。まさかと思うが、尾形さんも私のようにずぶ濡れの刑に遭ったのだろうか。そうだったら少し笑える。
 風呂から上がると、部屋着になり髪の毛を乾かす。このシャンプーの匂い好きなんだよなぁと最近愛用し始めたローズの香りがするシャンプーの匂いを堪能していると、インターホンが鳴った。

 誰だろうとスコープを覗く前に、オイと一言聞き覚えの声がした。やっぱり尾形さんかとドアを開けて何でしょうと彼を見れば、濡れた衣類が入った洗濯籠を片手に立っていた。何かありました?と洗濯籠と尾形さんを交互に見る。

「お前んとこの乾燥機動くか?」
「えっ?あっ、はい」
「じゃあ貸してくれ。これ使用料」

 そう言って彼は私に千円を手渡してきた。別に気にしなくていいのにと思いながら、部屋に上がってもらい洗面所に案内する。彼に洗濯物を乾燥機に突っ込んでもらうと、ボタン操作は私がした。

「確かこのアパートって、洗濯機と乾燥機は備え付けじゃなかったですか?」
「……一週間前にお陀仏した。大家の婆さんに言ったはずなんだが、修理業者がまだ来ん」
「そっかぁ。大変でしたね…。終わるまで待ってます?」
「すまん。そうさせてもらう」
「どうぞどうぞ」

 二人で居間に移動するとソファーに座ってもらった。飲み物の準備をしてみたが、お茶と紅茶とコーヒーのどれが好きなんだろう。

「尾形さんはどれがいいですか?」

 それぞれを手に取って見せると、一番右のやつとコーヒーを指差した。了解ですと一言、お湯を沸かしてコンロの前で待っていると、そこから沈黙してしまう。いつも人目のある所でしか話したこと無かったし、変な緊張感が漂ってる気がする。
 何か話題を私から切り出した方がいいのかな…。ソファーで寛いでいる彼の横顔を見ていると、その視線が写真立てに向いていることに気付く。私の両親と従兄弟の佐一君と撮った写真だ。この時は高校一年生の時だったかな。

「これ、お前と両親と……兄弟か?」
「佐一君って言って私のイトコなんです。彼が一つ下なんですけど、高校入学した頃かなあ」
「へえ、こうやって見るとも今より随分と幼い顔してるな」
「そんな離れた場所から見てるのに良く分かりますね」
「元々視力は良い。特に動体視力は人並み以上だと言われたことがある」
「何かスポーツでもやってたんですか」
「スポーツって訳じゃないが、猟銃免許と何度かライフル射撃の大会は出たことがあったな」

 幼い頃に母方の実家に居たという彼は、子供の頃に勝手に持ち出した祖父の猟銃で飛んでいた鳥を撃ち落とした事がきっかけで射撃を始めたらしい。……いや勝手に持ち出しちゃ駄目じゃん。尾形さんの幼少期ってどんな感じだったんですか?と少し気になって聞いてみるが、彼は何度か口を開いては閉じを繰り返し、結局何も語らなかった。
 目元に影が掛かったのを感じて理解した私は、きっと彼の一番踏み込んで欲しくない部分なんだろうと、別の話をすることにした。

「今日はカレーなんですけど、甘口と中辛のどっちがいいですか?」
「辛い方がいい。甘いのは苦手だ」
「分かりました。尾形さんが一緒に食べてくれるおかげで、最近料理するのが楽しいんですよ」
「そりゃよかったな」

 ふっと彼の薄く笑った口元に思わずドキッとさせられる。
 お湯が沸いたのでコーヒーの用意をすると、尾形さんはその香りを鼻先でスンスンと嗅ぐ
。反応の仕方が猫のようで、尾形さんの深い黒目が黒猫を連想させた。

「それ、少し高いやつじゃないか?」
「え?なんで分かるんですか?」
「前に一度だけ飲んだことがある。名前は忘れたが…」
「エクーアのシベットコーヒーですよ」
「あぁ、それだ。雑味が無くて飲みやすかった」

 一度飲んでみたくて贅沢をした一品だったので、彼が喜んでくれて良かった。マグカップを渡すと受け取って、そっと一口飲んだ。

「ん…やっぱり美味いな」
「ですねぇ。これ飲むと本当贅沢してる気分です」

 彼の隣に一人分のスペースを空けてソファーに座ると、私も同じくコーヒーを堪能した。次第に尾形さんの調子も戻り、話は私のことになる。
 仕事を辞めてから最近は就職活動を頑張ってることや、それでも自分のやりたい仕事が見つからなくて悩んでることも話してしまった。聞いてくれた尾形さんに感謝している所で、乾燥機が終了の音を鳴らしたので二人で洗面所に向かう。

「ん、乾いてますね。畳むの手伝います。直ぐにやらないと皺になっちゃうんで」
「助かる」

 居間に移動させた洗濯物をソファーにドサッと置いて二人で作業開始だ。
 畳んでいる所を横目に見て直ぐに彼が不器用だと分かり、皺になり難いものを渡して、私がシャツ類を畳むと直ぐに終わってしまった。もうちょっとゆっくりしたらよかった。折角の二人の時間があっという間だったことに残念な気持ちになる。
 畳んだものを洗濯籠に戻すと、また乾燥機が必要になったら言って下さいね、と彼を玄関まで見送った。

、就職先探してるんだったよな」
「はい、まあ…はい」

 靴を履いてドアノブに手を掛けたまま振り返った尾形さんが、私を見るとそう言った。じゃあ、と彼の次の言葉を聞いて私は目を丸くした。なんと尾形さんの職場で求人募集してるとかなんとか……こんな嬉しい事があっていいものなのか。もしかしたら尾形さんと職場ライフを楽しめるのではないかと期待しながら、彼がどこの会社に勤めているか聞くと超大手の有名企業の名前が出てきた。

「………はい?」
「いや、だから」
「ま、まままって下さい!私みたいなポンコツが働ける場所じゃない気が…!!」

 焦る私の頭に軽くチョップした尾形さんは俺に喋らせろと言って呆れていた。口を噤んだ私は黙って彼の話に耳を傾ける。

「別に社員として働けって訳じゃない。社員食堂のババア連中が調理場のスタッフ増やせって煩いだよ」
「ババアってあんた……言い過ぎなのでは」
「お前、料理得意だろ?手際はどうか知らねえが働く気があるなら、話し通しとくぞ」
「………あ、えっと…」

 ど、どうしよう!?尾形さんと同じ職場だラッキーなんて思ってたけど、予想より斜め上の職種を言われてしまい言葉に詰まる。そういうのって調理師免許とか必要なんじゃないの?どうなの!?分かんない!

「別に返事を急いでる訳じゃないから、働きたくなったら言ってくれ」
「はい…ありがとうございます」

 職安で取り付けた三社分の面接が落ちたら、その時は食堂の調理スタッフを考えてみよう。もしかしたら余ったオカズを持って帰れるかもしれない。

 つまるところ、そういうことなのだ。