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犬も歩けば棒に当たる

 真新しいティッシュ箱の入った紙袋を隣人の玄関のドアノブに引っ掛けた。付箋に書いた『今日から引っ越してきました。205号室のです』を紙袋にテープで貼り付けると、よし、と一人満足して自分の部屋に戻った。
 流石に夜の10時だし帰ってるだろうと思った隣人は未だに留守で、表札には『尾形』と書かれた苗字だけが今の私が知る隣人の情報だった。食べ物だと好みがあるだろうし、この蒸し熱い夏の熱帯夜に置くのはマズイと思い無難なティッシュにした。

 明日には就職活動も本格的に始めないと、今までの貯金が底をついてしまう。挨拶なのだからと少し身嗜みを整えてみたが、隣人に会うことも無かったので、結んでいた髪の毛のゴムを外すとベッドに倒れ込んだ。

 一ヵ月前に職場を退職した。
 理由は言い出したらキリがないのだが、決定打になったのは同僚からのストーカー被害だった。まさか私がこんな目に遭うなんて思わなかったけど、世の中何が起こるか分からない。
 天井を見詰めていた目をゆっくり閉じると、一番仲の良かった同僚の白石君を思い出してしまいフフフと小さく笑った。意識も遠くなる中、また会う機会があったら一緒にご飯食べたりしたいなあ、と夢の中に落ちた。




「……ん、朝か」

 朝チュンで目が覚めた私は、壁掛け時計で時刻を確認する。まだ6時かぁと二度寝したい気持ちになりながら、ウーンと伸びて上半身を起こす。確か昨日は大家のお婆ちゃんから、ゴミ収集日の紙を貰った事を思い出して立ち上がった。欠伸をしながら冷蔵庫に貼ってあるそれをチェックする。

「月水金が燃えるゴミってことは今日か」

 引っ越したばかりの部屋にはコンビニ袋程度のゴミしか集まってない。だからと言ってそのまま溜めるのも嫌だったので、早起きの感覚を養う為にそれだけ引っ掴んで玄関に向かう。
 だぼっとしたTシャツに綿のショートパンツは夏の寝間着定番のスタイルだ。そしてサンダルを履いたら完璧。玄関のドアノブを掴んだ瞬間、あ…と昨日のことを思い出す。隣人が身嗜みに口煩い人だったら面倒だと思い、履いていたサンダルを脱ぐと洗面台に引き返した。

「寝癖無し、顔色は良し。スッピンだけど大丈夫でしょ。よし…!」

 鏡に映る自分に大丈夫だとOKを出すと、玄関でサンダルを履いてドアを開けた。

「あ」
「え?」

 黒い瞳が印象的なツーブロックの男の人と鉢合わせた私は、それが隣の尾形さんだと直ぐに分かった。だって私が角部屋だし隣は尾形さんしかいない。

「お、おはよう…ございます」
「おはよう。昨日のティッシュはお前か?」
「あ、はい!昨日引っ越してきたです」
「ふーん。まあ、よろしく」

 尾形さんはそう言うとさっさと階段を降りて行った。片手にゴミ袋を抱えていたので私同様ゴミ捨てなのだろう。しかしこの時の私は思うのだ。  ……な、なんだあのイケメン。朝からイイもの見れたなぁとその場で立ち尽くしたままぼんやりしていると、いつの間にか戻ってきた尾形さんに、ゴミ捨て場が分からんのかと聞かれた。

「あ、えっと……はい。分かりません」

 ええーーいっ。これもイケメンとお近付きになるチャンスだと、昨日大家のお婆ちゃんに教えてもらった事は忘れたことにして、彼に案内してもらうことにした。
 ゴミ捨て場に案内されたあとは、ちゃんとお礼を言って一緒に部屋まで戻った。

 少しだけ話して分かったことは、彼はあまり笑わない人だった。初対面だし、こんなもんだろうと一人頷くと、これから仲良くなっていけばいいんだと思った。
 でも、どうやって……?




 神様ありがとう。チャンスというものは意外なところに転がっているもんだ。

 夕方に行った職安で三社ほど面接日を決めた後、その帰りに寄ったスーパーで彼の姿を見付けた。いやぁ目立つ目立つ、その見た目の良さが女性客の視線を集めていた。
 少しだけ近付いて後ろからそっと覗き込むと、尾形さんは惣菜コーナーで何を食べるか迷っている様子だった。彼が手に取った焼きそばを見て、私はふと思う。

 もしかしてこの人って自炊しないのかな。

「それ、量の割りに値段高いですよ」
「っ!?……お前か。えっと」
です。昨日はお世話になりました。自炊はされてないんですか?」
「まあ、普段は帰りが遅いからな。自炊する時間を睡眠に充てたいんだよ」
「へえ、お仕事大変なんですねえ」

 彼の話を聞いた後、私はある提案を彼にしてみることにした。

「私、結構料理得意なんですけど、いつも作り過ぎちゃうんでお裾分けしましょうか?」
「いや、それは流石に悪いだろ」
「じゃあ、食材をダメにしがちな私のために食べて下さい」
「……まあ、それなら」

 彼は少し思案した後、首を縦に振ってくれた。
 よしよし。尾形さんとの接点を作ることに成功した。

 早速、今日持っていきますねと伝えて、一応嫌いなものを聞くと椎茸と答えてくれたので、私の脳内から椎茸を使ったメニューは削除された。  二人で肩を並べてアパートまで帰ることになり、引っ越してから良いことばかりじゃないかと神様に本日二度目の感謝をした。
 目の保養になるなぁと彼の横顔を見詰めて歩いていると、まさかの電信柱に激突する事故が起きた。ドゴッと良い音立ててぶつけた右頬を手で擦りながら、その場にしゃがみ込むと真上からフと小さく笑う声が聞こえる。

「……尾形さん、笑うなんてヒドイですよ」
「悪い。こんな漫画でも今時無さそうな、古典的な事故を間近で見れると思わなくて……フ、ハハッ…」

 あ、この笑った顔好きかも。痛い思いをして得た産物を有難く目の保養にして、私はすくっと立ち上がると帰りますよ、と彼の先に歩く。まあ恥ずかしくない訳じゃない。穴があれば直ぐにでも埋まりたい気分だ。

「笑って悪かったって…ふっ」
「ちょっと笑うか謝るかどっちかにして下さいよー……」

 彼の小さく笑う声に、まあこんな日もありだなと思えた一日だった。